2018/04/13

写真の臨在感

serene beauty


写真にはいろんな魅力があるけれども僕が惹かれるのは主に二つ。
一つ目は絵的に美しいこと。二つ目は臨在感。
絵的に美しいためには素材が重要だけど素材と同じくらい重要なのは構図。さらに色と光。
で、二つ目の魅力である臨在感というのは臨場感と言ってもいいけど、要するに「その場に居合わせているような感覚」のことだ。この臨在感は何によってもたらされるかというと、まず重要なのは触感を感じさせるほどのテクスチャの精密描写。そしてもう一つはボケの深度と滑らかさではないだろうか。

僕がはじめて写真に臨在感というものを感じたのは初代のSigma DP1で写真を撮ったときだ。見えるもの全てが触感を感じさせるほど精密に写っていた。それが僕にその場に居合わせているような錯覚をもたらした。そしてその魅力に取り憑かれた僕は結構長い間シグマフリークだったが、精密描写追求だけが独り歩きしてしまい袋小路に入ってしまった。

次に臨在感を感じたのはノクチルックスで撮られたライカの写真を見たときだ。開放F値0.95の極薄被写界深度のもたらす深いボケと滑らかなボケ味は被写体をクッキリまわりからくり抜き、僕はその立体感にたちまちとりこになった。でもノクチもライカも高すぎて買えないからキヤノンのドリームレンズやマクロスイターなどのシネレンズに手を出したりしたが思うような立体感が得られずこれも森のなかに迷い込んでしまった。

さて、僕は今日まで前者と後者、すなわち精密描写と極薄被写界深度は別々のテーマだと思っていた。精密描写も魅力的だし、極薄被写界深度も魅力的だ。だからFoveonはいいよねとか、小さいF値のレンズもいいよねとか、それぞれ別個に魅力を感じていた結果、例えて言えば右目は精密描写、左目はボケというふうに斜視になっていたような気がする。だが今日FujiのGFX50SにGF110mmF2を付けた作例をFlickrでみていてシャープかつボケが大きい写真の全てに臨在感が表現されているわけではないことに今更だけど気が付いた。つまりシャープさとボケの大きさをそれぞれ独立のパラメーターとして追求しても臨在感は得られないということなのだ。じゃあどうすれば臨在感が得られるかというとこれはまた別に追求しなければならないのでひとまず置くことにするが、ともかく精密描写とボケの大きさだけを別個にテーマとして追求しては駄目だと。少なくともその精密描写は臨在感に寄与しているか、そしてそのボケは臨在感に寄与しているかという視点から冷静に評価すべきではないかと。

いやわかっているひとにとっては何をあたりまえのことをくどくど書いているのかとあきれているかもしれないが、まぁつまりそういうことだったのかと気が付いた春の宵でした。












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