2018/02/20

脳内リゾート開発

久しぶりにお風呂に赤瀬川原平さんの「京都、オトナの修学旅行」を持って入った。
修学旅行は小学校、中学校、高校で経験済みだけど、名所旧跡の楽しみかたが分からなかった僕にとってそれはもはや記憶の彼方だ。この本はつまりそういった場所を大人の眼で見たら何が見えてくるだろうという、原平さん独特の面白がり方を楽しむ本なのだ。その冒頭の部分をちょっと抜き出してみよう。

「今回の取材中にも、あちこちのお寺で子供の修学旅行団にはよく遭遇した。みんな列になってお寺の廊下や仏像の前をぞろぞろと通過していくわけだが、それらを興味ある目で見ているところにはあまり出会わなかった。みんな仕方なく歩いている感じが強かった。もちろん彼らの内実は見かけだけではわからぬものだが、でも自分の小・中学校時代の経験を照らしてみても、あの年齢で日本の古美術に接して、ストレートに実感できるものではないだろう。いまは洋服を着て、椅子で食事をして、テレビのキラキラが当たり前になっている現代人の目には、日本美術は地味で、無口で、とっつきにくい物だ。こんな古ぼけた薄暗い物のどこがいいのか、と思うのが正直なところではないかと思う。とくに自分を工夫できない子供にとっては。」

学童期に日本の伝統美術に接することは一概に無意味とはいえない。いやむしろこういったものを見聞した経験は記憶の奥深くに逗まってずっと将来の自己形成に資するものがあるだろう。でも子供の頃に感じたつまらなさのせいで大人になってから関心の向く範囲が狭くなっているとしたらそれはもったいないことだし、この本の面白さや趣旨の一端もそこにある。

さて、でも今日僕が話したかったのはそのことではない。
のんびり湯船に浸かりながらその本の冒頭を読みはじめてふと目に止まったのは、実はこの最後の「とくに自分を工夫できない子供にとっては」というところ。
原平さんの本は楽しく気軽に読めるけれど、うっかり読み過ごしてしまいがちな所々に彼の脳の中を覗き込める穴がある。
この「自分を工夫できない子供」というセンテンスは普段僕達が目にする言い回しではない。自分を工夫するとはどういうことだろう。

それで僕は相変わらず湯船の中でぼんやりこの言葉を巡って連想を遊ばせているうちに思い出したのが彼の「ステレオ日記 二つ目の哲学」のなかの「脳内リゾート開発」という言葉。この「二つ目の哲学」という本は原平さんが立体視が出来るようになった経緯と、自分でも立体写真を撮りはじめてその面白さに夢中になるという、その興奮が赤裸々に伝わってくる僕の格別な愛読書のひとつだが、そのなかに彼のもう一つの大きなテーマであった路上観察について触れている箇所がある。

「この一点で路上観察のニュアンスを伝えるのは難しいが、基本はいま言ったような出来事である。これまで出会ったことのない面白さに次々とぶつかる。様々なタイプがあるわけで、基準になるのは自分の感覚だ。面白い、何故面白いのかと考えるうちに、いままで知らなかった、隠れていた頭の部分に入り込んでいる。だから新しいタイプの物件を一つ見つけるたびに、自分の中の新しい感覚を一つ見つける。路上観察で路上を歩くことは、そのまま自分の頭の中を歩くことなのだ。そうやって未知の頭の中が広がっている。頭の中は限られた場所だと思うのだけど、その中がどんどん広がっていく。ほとんど無限に広がりそうだ。そのようにして脳内リゾート開発の現場に出会う。」

これで思い出すのが原平さんが27歳のときに作った「宇宙の缶詰」という作品だ。カニ缶の内側に缶詰のラベルを貼って蓋をハンダ溶接したものだけど、缶詰の中から見ると(缶詰の中の空間は別として缶詰の外の)宇宙全体を缶詰にしたことになるというものだ。これと同じように考えて、頭蓋骨をクルリと反転させれば宇宙全体が脳ミソになる。つまり世界は僕の脳であり、脳内リゾート開発=世界リゾート開発=無限の広がりということになる。
ま、ちょっとニュアンスは違うけど、「自分を工夫する」というのは自分の中の未開発領域に鍬(くわ)を入れること。今まで全く自分に縁のなかったことは沢山ある。自分にできなかったこともいっぱいある。トシをとってからいろんなことに手を出すのは死ぬまでの暇つぶしみたいな見方もあるけど、自分を工夫することの喜びを感じて生きていきたいと思う。



宇宙の缶詰






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