2018/04/24

柿の文鎮

南部鉄 柿

南部鉄で出来た柿の文鎮です。
骨董趣味はありませんが、なんともいい佇まいです。






南部鉄 柿

万年筆を再び使うようになってノートの折り返しの浮きを押さえるために購入したのですが勉強の合間に眺めるのもいいものです。








南部鉄 柿

小さく可愛い文鎮ですが手にするとずっしり重くて525gもあります。
僕は楽天の書道系のお店で購入しましたが万年筆販売で有名な「スミ利」さんでもあつかっておられますね。
追伸:この写真では柿の色はかなり赤っぽく写ってしまいましたが実物はもうちょっと地味な朱色です。念の為。






2018/04/15

YARD・O・LED

YARD・O・LED Blueblack

YARD・O・LEDのBlueblack。
この独特の青緑色が気に入って随分使ったけど万年筆熱が冷めてからほぼ7年間お蔵入り状態だった。
それが最近ポルトガル語を勉強し始めてからふたたび万年筆熱に火がついた。
変色してるかもと思ったが買ったときとあまり色味は変わっていなかった。
青すぎず緑すぎず、明るすぎず暗すぎず、そして若すぎず渋すぎず。
いい塩梅です(Photo Yodobashi ®)。










2018/04/13

写真の臨在感

serene beauty


写真にはいろんな魅力があるけれども僕が惹かれるのは主に二つ。
一つ目は絵的に美しいこと。二つ目は臨在感。
絵的に美しいためには素材が重要だけど素材と同じくらい重要なのは構図。さらに色と光。
で、二つ目の魅力である臨在感というのは臨場感と言ってもいいけど、要するに「その場に居合わせているような感覚」のことだ。この臨在感は何によってもたらされるかというと、まず重要なのは触感を感じさせるほどのテクスチャの精密描写。そしてもう一つはボケの深度と滑らかさではないだろうか。

僕がはじめて写真に臨在感というものを感じたのは初代のSigma DP1で写真を撮ったときだ。見えるもの全てが触感を感じさせるほど精密に写っていた。それが僕にその場に居合わせているような錯覚をもたらした。そしてその魅力に取り憑かれた僕は結構長い間シグマフリークだったが、精密描写追求だけが独り歩きしてしまい袋小路に入ってしまった。

次に臨在感を感じたのはノクチルックスで撮られたライカの写真を見たときだ。開放F値0.95の極薄被写界深度のもたらす深いボケと滑らかなボケ味は被写体をクッキリまわりからくり抜き、僕はその立体的にたちまちとりこになった。でもノクチもライカも高すぎて買えないからキヤノンのドリームレンズを大枚はたいて購入したりマクロスイターなどのシネレンズに手を出したりしたが思うような立体感が得られずこれも森のなかに迷い込んでしまった。

さて、僕は今日まで前者と後者、すなわち精密描写と極薄被写界深度は別々のテーマだと思っていた。精密描写も魅力的だし、極薄被写界深度も魅力的だ。だからFoveonはいいよねとか、小さいF値のレンズもいいよねとか、それぞれ別個に魅力を感じていた結果、例えて言えば右目は精密描写、左目はボケというふうに斜視になっていたような気がする。だが今日FujiのGFX50SにGF110mmF2を付けた作例をFlickrでみていてシャープかつボケが大きい写真の全てに臨在感が表現されているわけではないことに今更だけど気が付いた。つまりシャープさとボケの大きさをそれぞれ独立のパラメーターとして追求しても臨在感は得られないということなのだ。じゃあどうすれば臨在感が得られるかというとこれはまた別に追求しなければならないのでひとまず置くことにするが、ともかく精密描写とボケの大きさだけを別個にテーマとして追求しては駄目だと。少なくともその精密描写は臨在感に寄与しているか、そしてそのボケは臨在感に寄与しているかという視点から冷静に評価すべきではないかと。

いやわかっているひとにとっては何をあたりまえのことをくどくど書いているのかとあきれているかもしれないが、まぁつまりそういうことだったのかと気が付いた春の宵でした。












2018/04/10

人生における入力と出力

現実の世界で収入と支出があるようにバーチャル世界にも収支があるのではないか。
そのインプットとアウトプットのトータルバランスのことを考えている。
ひとが生まれて成長しその過程で様々なことを学習し、働きだしてからその学習した内容を社会に還元する。そして退職する頃には出涸らし状態。いや見た目は以前と変わらないし働こうと思ったら働けないわけじゃないが、その内容はほとんどがルーチンワークで脳はほとんど活動していない。

もちろん高齢になってもバリバリ新しいことにチャレンジして脳をフル回転している人もいるので一概には言えないが、僕の場合は退職する一年ほど前から脳の収入と支出のバランスがマイナスになっている感じがしていた。具体的にはそれは《朝起きたときに仕事に行きたくないという感情》として現れた。
「うつ」に似ている。あるいは「うつ」の一部は脳の収支のバランスがマイナスになっていることが原因なのかもしれないが僕は専門ではないのでわからない。ただ要するにそういった状態が僕の場合は収支の問題だったのではないかと退職してからなんとなく感じている。

さきほど人生の前半は入力、後半は出力とざっくり分けたけれども、もちろん人生の前半にも出力はあるし後半にも入力がある。むしろ後半で出力より入力の多い人もいるだろう。ただ傾向としてはやはり後半は入力より出力のほうが多いと思うし、僕の場合もいろいろ知識や経験や新しいアイデアなどで入力に努めてはいたが結局最後は枯渇してしまった。これは脳の破産と言ってよいかもしれない。

脳が破産するとどうなるか。具体的には「自分に飽きる」。もう逆さに振っても鼻血も出ない。出てこない自分に飽き飽きする。自分のことをつまらなく感じる。自分を捨てたくなる、いやそこまではいかないけど、少なくとも生きる喜びを感じれないまま過ごしていた。

転機になったのは病気の発症だった。2年前にメニエール病になって、眩暈、耳鳴り、難聴のために一時入院。去年の5月末には仕事の続行が実質上不可能になってしまった。そして二ヶ月間休職。ところがこの休職が僕にとって砂漠のオアシスとなった。10年ぶりに海で泳いだり、毎日プールで泳いだり、ジョギングしたりと、まるで小学校の夏休みに戻ったような日々を過ごすことができた。8月に復職したものの結局仕事続行が無理であることを再確認するだけだったので12月に退職させてもらった。

そういう、わがままが出来る境遇であったことには感謝しかないが、そして同じように永年命を削るような修羅場で過ごしてきてまだ戦い続けている同年代の戦友たちには申し訳ないが、今こうして自分のためだけに時間を使える自由というのは、ひょっとすると再び将来の出力のための入力期間なのかもしれないと思って日々セッセとポルトガル語を勉強したりギターを弾いたりして遊んでいる。











2018/04/05

久しぶりのペリカン

write and learn


最近はずっと、もう長い間プラチナのピグメントインクブルーを入れたパイロットキャップレス一本槍だったけど、今日ペリカンのM800イタリックライティングにセーラーの海松藍を入れて書いてみた。
そうしたら忘れていたM800を買ったときの感動が甦った。いやもちろんペリカンの素晴らしい書き味のことを忘れていたわけじゃないけど仕事使いにはもったいないというか、レディを現場に連れて行く訳にいかないというか。そんなわけでずっと彼女のことは敬して遠ざけていたのだ。
でも今日久しぶりに嗅ぐインクの匂いとM800の羽根のような書き味にウットリ。あぁ万年筆ってやっぱりいいなぁ。












2018/04/01

赤瀬川原平の千円札裁判

グリム童話に小人と靴屋というお話がある。
靴屋に代わって夜中に小人が靴を作る話だ。何かわからないが自分のあずかり知らぬところで密かに世の中のゼンマイを巻いているものがある。かさこそ小さな音を立てて床を這っている小さな虫。誰も気にとめずにいる小さな虫が、実は靴屋の小人のようにこの世の中のゼンマイを回しているということに気付いた原平さんは、その虫をつまみ上げ詳しく観察し始める。その虫の名前を「紙幣」という。
もちろん小学生だって知っている。お金というものが、いや例えば紙幣というものはインクで印刷されたただの紙切れに過ぎないということを。それを知って、驚いて、へーぇで終わる人もいれば、原平さんのように異様に関心を示す人もいる。原平さんはおそらく世の中全体を動かしているたてまえの、もっともピュアな象徴として、紙幣に強い関心を持ったのだと思う。印刷されたただの紙切れである。その紙切れの何が、世の中を動かしているのか。おそらく彼はその秘密が知りたくて、拡大鏡でもって紙幣を子細に観察し、それを自分の手で拡大模写したのだろう。
原平さんの視点はたゆまない僕の関心の対象だが、彼のおこした千円札裁判事件の意味をずっとはかりかねていたのだが、今日お風呂で彼の「運命の遺伝子UNA」という本を読んでいて以上のような形でようやく腑に落ちたのだった。それがわかったきっかけを振り返ってみたい。

その本の最後から二つ目の章「思いがけない因子のUNA」で、彼のライフワークの節目になった「トマソン」が発見されるに至った契機を彼が思い返している所。「まず芸術作品への幻滅があった。作品の素材であるスクラップ類を探して、遂に廃品回収の基地であるタテバにたどりつき、山のような物品(廃品)の存在感に圧倒された。それを素材にわざわざ作品を作る行為というのが、どうにも貧弱に思われてしまった。でもそれと入れ換えに、当時前衛芸術といわれていたものが世間的に認知されて、正統的な美術館に陳列されていく。そのことのギャップがむしろ面白く、路上の工事中の穴や、横に転がる電柱や、ピカピカ点滅する明かりを、「あ、現代芸術!」といって遊びはじめた。」
我々の目の鱗を落とすもっともピュアな物件としての「廃品」が、それだけで驚きの対象として完結しているにもかかわらず、わざわざ作者である私の名前を付けて社会の流通ネットワークに乗せるという行為の浅ましさやいじましさに、彼は釈然としないものを感じていたのだろう。だって、それはもう、そこにあるのだから。なぜわざわざ私の名前をそこに付けなければならないのか。それって、「私の」作品? 私が作ったものじゃないのに。
現代芸術というものが、かつて芸術と呼ばれていた概念を破壊するために存在するのなら、もはやそれは額縁や美術館におさまらなければならない理由はなく、芸術とさえ名付けられる必要も無く、すでに道ばたに転がっていても不思議ではない。この世界そのものが驚きの物件として存在しているのであり、宇宙の缶詰なのだ。

運とか運命とか、それからカラダとか、宇宙とかになぜ彼が強い関心を示したのか。
それらはすべて、コントロールしたいのに出来ないもの、理解したいのに、理解できないもの、制御したいのに、制御できないもの、統率したいのに、統率できないもの、自分であって、自分でないもの。おねしょとか、自分の意思じゃないのに起きてしまうことに対する戸惑い、困惑、腹立ち、恐怖。心臓がなぜ勝手に動いているのかがわからない。わからないということは、いつ止まっても不思議じゃない。そういう恐怖に彼は深く苦しんだ。

つまり理解できない、コントロールできないものに対する恐怖と、関心。それは巨大な社会全体を動かしている「たてまえ」の究極の象徴としての「紙幣」に対する関心と、その謎にどんな根拠があるか。その謎を、いやむしろそこには謎なんか無いということをあばくために紙幣の緻密な拡大模写をしたのだろう。
彼の1963年第15回読売アンデパンダン展出品作であるB号券千円札の拡大模写の作品タイトルは《復讐の形態学(殺す前に相手をよく見る》であった。











2018/03/25

X100Fの解像度

DSCF4010
Fuji X100F 23mm F4 ss1/150 ISO 200

ファットバイクで山道を登っていつもの湖を見たら湖水の色が綺麗なエメラルドグリーンをしていたのでX100Fでパシャリ。
家に帰ってパソコンのモニターで見たら解像度がすごかったのでビックリ。
画素数がアップしたX100Fの魅力を紹介していた写真家の高橋俊充さんの記事を思い出して深く納得した。













Rolling 60

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写真やカメラの世界で随分長い間遊んできたけどひところのような情熱は消えてしまった。
かと言って写真が嫌いになったわけではない。冷静に見れるようになったというか。いや冷静といっても冷めているわけではない。つまらない写真よりは面白い写真を撮りたいが、以前にもまして写真に自分の存在を乗っける割合が減ったというか。

これからも写真は撮り続けると思うけどアップする頻度は減るだろう。
その分還暦で退職して写真以外のあれやこれや、エイジングしていく自分の身体との対話を中心にした内容をアップしたいと思って新しいブログを作りました。題してRolling 60。お暇なときにどうぞ。









2018/02/25

silêncio

silêncio
Fuji X100F F2/23mm F2.8 ss 1/320 iso 200



















2018/02/20

脳内リゾート開発

久しぶりにお風呂に赤瀬川原平さんの「京都、オトナの修学旅行」を持って入った。
修学旅行は小学校、中学校、高校で経験済みだけど、名所旧跡の楽しみかたが分からなかった僕にとってそれはもはや記憶の彼方だ。この本はつまりそういった場所を大人の眼で見たら何が見えてくるだろうという、原平さん独特の面白がり方を楽しむ本なのだ。その冒頭の部分をちょっと抜き出してみよう。

「今回の取材中にも、あちこちのお寺で子供の修学旅行団にはよく遭遇した。みんな列になってお寺の廊下や仏像の前をぞろぞろと通過していくわけだが、それらを興味ある目で見ているところにはあまり出会わなかった。みんな仕方なく歩いている感じが強かった。もちろん彼らの内実は見かけだけではわからぬものだが、でも自分の小・中学校時代の経験を照らしてみても、あの年齢で日本の古美術に接して、ストレートに実感できるものではないだろう。いまは洋服を着て、椅子で食事をして、テレビのキラキラが当たり前になっている現代人の目には、日本美術は地味で、無口で、とっつきにくい物だ。こんな古ぼけた薄暗い物のどこがいいのか、と思うのが正直なところではないかと思う。とくに自分を工夫できない子供にとっては。」

学童期に日本の伝統美術に接することは一概に無意味とはいえない。いやむしろこういったものを見聞した経験は記憶の奥深くに逗まってずっと将来の自己形成に資するものがあるだろう。でも子供の頃に感じたつまらなさのせいで大人になってから関心の向く範囲が狭くなっているとしたらそれはもったいないことだし、この本の面白さや趣旨の一端もそこにある。

さて、でも今日僕が話したかったのはそのことではない。
のんびり湯船に浸かりながらその本の冒頭を読みはじめてふと目に止まったのは、実はこの最後の「とくに自分を工夫できない子供にとっては」というところ。
原平さんの本は楽しく気軽に読めるけれど、うっかり読み過ごしてしまいがちな所々に彼の脳の中を覗き込める穴がある。
この「自分を工夫できない子供」というセンテンスは普段僕達が目にする言い回しではない。自分を工夫するとはどういうことだろう。

それで僕は相変わらず湯船の中でぼんやりこの言葉を巡って連想を遊ばせているうちに思い出したのが彼の「ステレオ日記 二つ目の哲学」のなかの「脳内リゾート開発」という言葉。この「二つ目の哲学」という本は原平さんが立体視が出来るようになった経緯と、自分でも立体写真を撮りはじめてその面白さに夢中になるという、その興奮が赤裸々に伝わってくる僕の格別な愛読書のひとつだが、そのなかに彼のもう一つの大きなテーマであった路上観察について触れている箇所がある。

「この一点で路上観察のニュアンスを伝えるのは難しいが、基本はいま言ったような出来事である。これまで出会ったことのない面白さに次々とぶつかる。様々なタイプがあるわけで、基準になるのは自分の感覚だ。面白い、何故面白いのかと考えるうちに、いままで知らなかった、隠れていた頭の部分に入り込んでいる。だから新しいタイプの物件を一つ見つけるたびに、自分の中の新しい感覚を一つ見つける。路上観察で路上を歩くことは、そのまま自分の頭の中を歩くことなのだ。そうやって未知の頭の中が広がっている。頭の中は限られた場所だと思うのだけど、その中がどんどん広がっていく。ほとんど無限に広がりそうだ。そのようにして脳内リゾート開発の現場に出会う。」

これで思い出すのが原平さんが27歳のときに作った「宇宙の缶詰」という作品だ。カニ缶の内側に缶詰のラベルを貼って蓋をハンダ溶接したものだけど、缶詰の中から見ると(缶詰の中の空間は別として缶詰の外の)宇宙全体を缶詰にしたことになるというものだ。これと同じように考えて、頭蓋骨をクルリと反転させれば宇宙全体が脳ミソになる。つまり世界は僕の脳であり、脳内リゾート開発=世界リゾート開発=無限の広がりということになる。
ま、ちょっとニュアンスは違うけど、「自分を工夫する」というのは自分の中の未開発領域に鍬(くわ)を入れること。今まで全く自分に縁のなかったことは沢山ある。自分にできなかったこともいっぱいある。トシをとってからいろんなことに手を出すのは死ぬまでの暇つぶしみたいな見方もあるけど、自分を工夫することの喜びを感じて生きていきたいと思う。



宇宙の缶詰







2018/02/12

学び続ける

studying portuguese

今日ふと思ったんだけど
どんなときでも「学び続ける」ということが
僕が人生という舟を漕ぎ続けるための
オールだったし
それはこれからも僕にとって
希望であり続けるだろう

こころが死にかけていると学ぼうとしないし
身体は死にかけても学ぼうとするかぎり
こころは死なない














2018/02/06

monochrome

IMG_6381A
Fuji X100F F2/23mm

iPhoneのアプリCARBON内Parisで加工後
PSでハイパス処理。
"偶然と必然" J.モノー氏近影のトーンに寄せて















2018/02/05

tango

tango singer
Fuji X100F F2/23mm F2.0 ss1/60 iso 2000















2018/02/03

a mug

a mug
Fuji X100F F2/23mm F2.0 ss 1/60 iso 400 Processed with VSCO n1 preset, Snapseed, Photoshop
















2018/02/02

X100F用のサムレスト

P2020001
Lensmateのサムレストを購入しました















P2020002
40度と80度の二段階に開くのでリアコマンドダイヤルに干渉しません















P2020003
ライカよりライカっぽくなってきた
これでライカ欲しい病完治か(笑)














DSCF4386
Fuji X100F F2/23mm F2.0 ss 1/80 iso 200
ギター教室に通い始めました










2018/01/29

camellia

冬の花
Fuji X100F F2/23mm F2.0 ss 1/350 iso 200


















2018/01/28

a winding path

a winding path
Sigma dp0 Quattro 14mm F4 ss1/250 iso200
















2018/01/26

落花散

落花散
Fujifilm X100F F2/23mm F4.0 ss1/110 ISO 200



















2018/01/25

Fuji X100F用のポーチ

NATIONAL GEOGRAPHIC Medium Pouch NG 1153

コートのような大きめのポケットならX100Fも入るけどそういうポケットがないときはどうするか。若い子ならショルダーストラップもいいけどおっさんとしてはこういうかっこいいカメラは目立たないように潜ませて携帯したい。それで見つけたのがNational Geographicのミディアムポーチ。













NATIONAL GEOGRAPHIC Medium Pouch NG 1153

これはNG 1153という型番。National GeographicからはNG A1212というほぼ同サイズのポーチも出ているが、僕はこの1153のミリタリーなデザインが気に入っている。













NATIONAL GEOGRAPHIC Medium Pouch NG 1153

外のポケットにバッテリー、内側のポケットにはメモリーカードなどが入る。中は結構大きくてフカフカしている。Amazon AmericaのこのポーチのコメントにはX100にFujiのフードを付けたら入らないと文句を言っている人もいるが、そりゃ無理だろう。でも僕はためしに八仙堂の継手リング経由で49→52のステップアップリングと52mmのレンズ保護フィルターと52mmのオリンパスのレンズキャップを付けてみたがこのポーチは余裕だった(なんだ結局いろいろ買ってるじゃないか(笑))。ちなみにSigma DP1 Merrill, DP2 Merrillもレンズ保護フィルターとレンズキャップ装着しても入ります。DP3Mは無理。













NATIONAL GEOGRAPHIC Medium Pouch NG 1153

ショルダーストラップのレバーナスカンがいい味。











NATIONAL GEOGRAPHIC Medium Pouch NG 1153

背面にはベルトを通せるバンドがあって、これが僕にとっては一番嬉しいポイント。


























NATIONAL GEOGRAPHIC Medium Pouch NG 1153

このメーカーのカメラバッグは有名ですが初めてのナショジオでした。











2018/01/24

Fuji X100F

Fuji X100F

これまでいろんなカメラを買ったけど
見て美しく 触って楽しく
手に感じる重みが心地良いカメラは始めて













Fuji X100F

ただ露出補正ダイヤルは固すぎる
ファインダーを覗きながら親指だけで回そうとすると
+にはかろうじて回せても-には回せない
好みの固さに調整してくれるサービスがあればと思う












Fuji X100F

保護フィルターやフードやカバーも考えたけど
無造作にコートのポケットに放り込んで
どこへでも連れて行くという趣旨から離れてしまう
結局スパイラルアロウズのストラップだけにした












窓の外は雪

窓の外は雪


















2018/01/16

João Gilberto

silêncio


最近はもっぱら読書とかワークアウトとか、大げさに言えば自己改造の方向に力を入れている。力を入れすぎて、水泳やジョギングのあとで風邪をひいて寝込んでしまったり、押し入れから出してきたブルワーカーをやりすぎて右肩を痛めたり、昨日も新しく買ったマウンテンバイクで転倒して左胸をしたたかに打って、骨折こそしなかったけど笑ったりくしゃみなんかすると激痛で涙が出る。今日はそんなわけで落ち着いて家で音楽を聴いている。

写真のCDはジョアンジルベルトが1973年にリリースした「三月の水」、これは邦名で元のタイトルは彼の名前そのままの"JOAO GILBERTO"。いつ買ったかは覚えていない。たぶん20年くらい前。本屋の店頭に雑然と並んでいた中古CDの中に眠っていた。製造国はブラジルで、ジャケットは色褪せていた。彼のCDはいくつか持っているけど「JOAO」に次いでよく聴く。呟くような歌声が痛む肋骨に優しい。












R0017279C

何で撮ったかというとOM-D E-M1にNokton 25mm F0.95 開放。この組み合わせはザ・カメラという感じ。










2018/01/04

今年の抱負?

雪霰


写真を撮り始めたきっかけは何だったのかを思い返すと、インターネットを始めて間もない頃にiMacのデスクトップピクチャーを集め始めた頃にさかのぼるだろう。最初はSpyMacというサイトで気に入った写真をダウンロードしていたが、そのうちにいろんなひとの写真に興味を持ち始めた。ハイパーカードの生みの親であるBill Atkinson氏が写真家に転身したと知ったときには驚いたが、彼のサイトで写真を見てその素晴らしさにまた驚いた。彼の友人であるCharles Cramer氏の写真もまたBill氏に負けず劣らずさらに素晴らしいものだった。まぁそういった写真をダウンロードして愛でていたわけだが、ソニーのデジカメを買って自分で撮った写真をこのShins blogにアップするようになってから僕も写真を撮る楽しみにどっぷりはまってしまった。

写真を始めて間もないころは魅力的な写真をみて自分もそんな写真を撮ってみたいと思い、それをまねて新しいカメラやレンズを手に入れたり技術を身につけたりするわけだが、これが一番楽しい時期だろう。つまり日々新しい試みをしたり、目指すべき目標に向かって努力する。この時期はかなり長くて、僕の場合は10年続いた。

でもある程度写真を撮り続けてそれなりの経験と技術が身につくと、かつて自分が素晴らしいと思っていた写真にまったく興味がなくなってしまった。すべての写真がつまらないわけではないが、自分の写真にしても他人の写真にしても、それが一応写真として成り立っているかという、いわば他者の目で構成された写真がつまらないのだ。じゃあパーソナルであればいいのかというとパーソナルであるだけではやっぱりつまらない。できれば自分の後頭部が見えるくらい視点の遠い写真が撮りたいと思う。そんな写真はなかなか撮れない。でもどこを向いていたいかといえばそういう方向。





















2018/01/03

撮らないですむためのカメラ

camellia

先月残柿を撮ってからもう何も撮りたくなくなり、何も撮りたくなければ撮らなくてもよいわけで、それはそれで心穏やかな日々だ。
でも相変わらずお風呂には古いカメラ雑誌を持って入っていて、何も撮りたくはないが何か撮りたいという、カメラ好きならたぶんわかってもらえると思うけど、そういう気持ちはやはり失われていない。
RicohのGRD4を下取りに出してそのかわりにフジのX100Fを買おうかと思っている。
フジはGFX50Sが欲しかったけど今の僕の気持ちの答えとしては大げさな気がする。ライカは意味の重さに僕自身がたぶん追いつけない。
GRD4は好きだったけど特にモノクロームでの平板な質感や何を撮ってもドキュメンタリーの臭いがするのが嫌になってしまった。
どんな写真を撮りたいかは少しずつわかってきた。かなりゆるいがパーソナルな臭いのするものだ。緩くてパーソナル。そしてぼんやりと遠い。でもそんな写真はなかなか撮れない。もう撮る前からほとんど撮れないのがわかっている。だけどずっと待っていないと撮れないから、撮れないためにずっと持っていなければならない。撮れない、いやむしろ撮らないですむためのカメラを買おうとしている。まだ買ってもいないのに、そんなことを考えている。
新年あけましておめでとうございます。