2017/10/23

最近ずっと伊丹さんのことを考えている

最近ずっと伊丹さんのことを考えている。
そのきっかけは確か佐々木孝次氏の著作「母親・父親・掟―精神分析による理解」に彼が影響を受けたと知って、二人の対談集「快の打ち出の小槌―日本人の精神分析講義」を読み始めたことと関係があるが、それ以前に彼の謎を解くキーワードである「父性」や「日本人論」などを中心に僕の意識がぐるぐる巡っていたことや、伊丹十三記念館から届いたDVD「13の顔を持つ男」を見て感じたことも大きかった。
彼のことを考えるというのは僕の中では一種中毒のようなものだが、苦い中毒というか、彼を考えるというのは常に自らの意識や認識や行動様式に変容を迫られる体験なわけで、しかも僕にその変容を迫る当の当事者である彼が消えてしまってもういないというのが、まるで実在しないのに強い影響力を持つ、地元の大きな洞窟、一時的には忘れていても常にそこにあってその意味を問いかけてくる大きな洞窟のような感じがするのだ。

今朝も通勤の車の中でとりとめなく彼のことを考えていて、妻の宮本信子さんの彼にまつわる思い出の一つに、彼は執拗なほど割り込みの車を前に入れようとしなかったことや、子供の頃級友が泥地で鋸を振り回せば簡単に鰻が捕れると自慢しているのに対し「人種が違う」と感じたことなど、そういった彼の感じ方は彼のエッセイの中に枚挙にいとまがないが、要するに彼はズルいことを極度に嫌悪していたわけだが、なぜそれほどずるさに対する生理的な拒否感を持っていたのだろうということをぼんやり考えていた。

ずるさというのはなんだろうと考えるとそれは極論すれば生きるためには自らの居住まいを無視するということで、生きるために道徳律やおのれを律する社会性や我々が担っている文化や美に対する尊敬の念やなにやら、つまりひとがひとであることの尊厳のようなものをすべて捨てて顧みない態度のことで、彼はそういった粗野であること、野卑なこと、鈍感なこと、意地汚いこと、みすぼらしいことなどに対する激しい嫌悪感の対極に位置するものとしておそらく自らを律することから生まれる上品さや洗練さや美しさ、清々しさなどを愛でていたのだろう。

つまり生命というものが、弱さや貧しさや、その先にある死に対する恐れによって、美しかるべき生命が惨めに汚されることが許せなかったのかもしれない。言い換えれば彼の好ましい佇まいに対する強い関心は、その対極にある愚かさや愚かさ故の恐れに対するアンチテーゼであったと、彼の中心にあるのは弱さや愚かしさに対する恐れと憎しみだったのではないか。そういった弱さや愚かしさからは自分は自由でありたいという強い希求こそが、彼の多岐にわたる行動の核だったのではないか。
そしてそういった弱さや愚かしさから自由であるための指針として、自らの内なる父性、幼いころに死別した父親が持っていたに違いない父性を自己の内面でどのような形で意識化するかが彼の中で大きなテーマとなったのだろう。そしてそれはやはり幼かった僕自身も弱さや愚かしさから自由でありたいという同じテーマを共有していたこと、母性圏からの離脱という共通したテーマを有していたことが、彼に対する強い関心のもとになっている気がする。

伊丹さんが父万作と対等に向き合えるようになり、父と同じ映画監督になって映画を撮ることが出来るようになったのは、岸田秀氏の著作を通じて母性圏を脱し父性を身に着けたことが大きかったようだ。佐々木孝次氏との対談「快の打ち出の小槌」には以下のような記述がある。
「だからねえ、なんていいますか、結局いかにして前エディプス期から一歩踏み出すのか、日本人が父親を発明し損なった文化であるとするなら、一体何がわれわれをエディプスの通過へ追いやってくれるのか、ということでしょうね。僕の場合、僕はまあ知的な人間でもなければ知的であるべく訓練された人間でもありませんけれども、こうして恐ろしげもなくお話をうかがえる唯一の根拠はね、自分の内部にある双極的関係性が、ある時突然砕け散ってね、いわば前エディプス期から次の世界へ一歩を踏み出したという、私にしてみれば非常に記念碑的な体験を持っているからなんです。何年か前に岸田秀さんの「ものぐさ精神分析」を読んでいた時なんですが、彼の唯幻論そのものもさることながら、巻末に「私の原点」という短い文章がありましてね、彼が自分の生い立ちを語っている。その中の短い一節に非常なショックを受けて私の自我が組み替わった、という体験があるわけです。(中略)そこから私は突然解放されて外へ出てしまった、ということは、僕はその時四十二歳だったわけですから、なんとまあ、四十二歳になってやっと前エディプス期を脱して、その後、自力でエディプスを通過しつつあると、まあ、完全に通過できるかどうかは今後の問題でしょうが、それにしても、中年でエディプスを脱却するというようなことがありうるのだと、しかもそれは、日本においては幸運な方なのだと、いうことが、とりもなおさず日本人の母子関係性と、それを引き裂いてくれるべき父親の不在という構造の根の深さを物語っていると思いますね」(「快の打ち出の小槌―日本人の精神分析講義」p236~237より)

糸井重里氏は彼の映画監督としての第一作「お葬式」を「つまり、外国人が見たお葬式ですね」と評しているが、あたかも彼はキリスト教圏に生まれ印欧語を話し父性を身に着けた欧米人が極東の不思議な国日本を見るように、あるときは感嘆し、あるときは面白がり、そしてあるときはその不思議の理由を解剖し、理解し、批判し、怒る。しかしそれが翻って実は自分もその日本人であることで、憤る。

そして彼の死。
彼は映画を通じて「日本を面白がる外人」あるいは「日本を面白がるおじさん」であると同時に「ミンボーの女」や「マルタイの女」でみられるようにわれわれ日本人のこころの自由の復権のために戦った人でもあった。そういう意味では彼は「日本人のお父さん」を担おうとしていたのかもしれない。彼はそれを自らのミッションとして、そしておそらく悲惨な結末を予測した上で、従容として自らの運命を受け入れたのではないか。
そういう彼の一途さに危険を覚えていたひともいたが、彼の仕事は彼の父性の証明でもあったから、それは彼の運命であったし、彼はそれを納得して去っていったのだ。そしてあとに残された私は呆然としつつ、私もまたその洞窟を掘り進めたいと思う。


















0 件のコメント:

コメントを投稿

twitter