2017/09/17

パリ、テキサス


数年前にDVDを買ったまま放置していたヴィム・ヴェンダース監督のロードムービー「パリ、テキサス」を観た。
もともとライ・クーダーの音楽が好きで、彼がスライドギターを弾いている本作もそれが理由で買ったのだが、なかなか観る気になれなかったのはこの映画の持つ荒涼とした寂しいイメージのせいだろうか。しかし見終わった今では脚本のサム・シェパードがひとつきほど前(7/27)に亡くなっていたことや、僕がこのDVDを観た前日(9/15)に主役のハリー・ディーン・スタントンが亡くなっていたことに偶然とはいえ不思議な縁を感じている。

もう30年以上も前の映画だ。
最愛の妻との関係が破綻したショックで記憶を失った主人公のトラヴィスは4年もの間メキシコを放浪したあげくテキサスの荒野で行き倒れになる。連絡を受けた弟のウォルトは、この何もしゃべらず頑なな兄の世話に手を焼きながらも何とか彼を自宅のロサンゼルスまで連れ帰る。そこにはウォルトとその妻アンが引き取って自分たちの息子として育てていたトラヴィスの息子がいた。トラヴィスは息子(名前はハンター)をつれて妻ジェーンのいるヒューストンへ行き、息子を妻に託して去って行く。そういう映画だ。

主人公トラヴィスの、ぼんやり見ていると見逃してしまうほどのわずかな表情の変化、弟夫婦の兄に対する細やかで行き届いた心配り(本当に善良な夫婦なのだ)、息子ハンターの、かわいさの中にもいっぱしの男らしい心の動き、主人公の妻ジェーン(ナスターシャ・キンスキー)の愛らしさ・可愛さ・美しさ・そして万感の表情表出、秀逸なカメラワークと独特の深いフイルムカラー、そしてライ・クーダーの奏でるスライドギター。
そういったすべてが、この低予算で作られた映画に横溢していて、見終わった後も永く余韻を残す。

ただなんというんだろう、もとのように仲良く親子3人で暮らすハッピーエンドを期待していた僕のような観客は、去って行く主人公と、それとは対照的に息子との再会を喜ぶ妻を見ていて釈然としないものを感じてしまう。いったいなぜトラヴィスは去らなければならなかったのか。

トラヴィスは息子にテープレコーダーの吹き込みを残している。
「望みがいっぱいあったんだよ。君の父親であることを分かってほしかった。君は分かってくれた。でも一番望んでたことは、やはり無理だと分かってしまった。君はママと生きろ。君たちを引き離したのは僕だ。僕が君たちを一緒にしなければならない。僕は一緒に生きられない。過去の傷がぬぐえないままだから。どうしても駄目なんだ。何が起こったのかも思い出せない。空白が空白のまま孤独に輪をかけ傷はいっそう治らない。だから今は、怖いんだ。また出掛けてしまうことが怖い。自分が発見するものが怖い。それに立ち向かわないことがもっと怖い。愛してるよ、ハンター。僕の命よりも愛してる」

トラヴィスはなぜ自分が傷を負ったのかが分からない。おそらく彼はその訳を思い出したくないために自ら記憶を消したのだろう。そして理由が未解決である以上、それは再び必ず繰り返されるであろう事を彼は知っている。だがその空白をのぞき込むことが怖くて出来ない。発見することよりも、立ち向かわないことの方がもっと怖いから、彼は立ち向かうことが出来ないのだ。ならば彼が消したかった記憶とは何だったのだろう。

トラヴィスは2回目の訪問で、のぞき部屋で働く妻にマジックミラー越し、マイク越しに(それが自分たちのことだと分からないような話法で)語りかける。
自分が彼女の愛を信じられず、ありもしない自分以外の誰かに対する嫉妬に狂っていたこと、そして妻が自分以外の誰かに嫉妬するのを見たかったが無駄だったこと。そのせいで自分は荒れ狂っていたこと。ところが妻が妊娠した途端に彼女の愛が信じられるようになって人生を前向きに生きることが出来るようになったこと。ところが今度は逆に妻が空虚を感じるようになって彼のもとを去ったこと。

嫉妬。それは欠落に対する怯えと怒りだ。トラヴィスははじめ欠落を持っていなかった。いや彼の中では欠落は意識化されていなかったのだろう。しかし愛する人を持ったことで欠落に対する怯えと怒りに襲われることとなった。だがジェーンに子供が出来たことで彼女を失う危険が去ったと感じ、欠落に対する怯えがなくなった。しかしトラヴィスの関心が子供に移ったと感じたジェーンに今度は逆に欠落に対する怯えが生まれた。つまり息子のハンターは夫婦の間ではともに欠落を埋めるものとして存在していて、それが一方の欠落を埋めているときは他方が欠落にさいなまれるという構図になっているのだ。トラヴィスがジェーンに、どうしてハンターを置いていったのかと問うた時ジェーンは、「空しさの代償として息子を利用したくなかったから」と答えている。ジェーンのふしだらな現在の生活を知って、トラヴィスはまた昔の荒々しい嫉妬心が蘇るのを感じた。だが問題はジェーンのふしだらな生活ではなく彼の中に生きている「欠落に対する怖れと怒り」なのだ。

トラヴィスは欠落によってしかひとを愛し得ない。それが彼が消したかった記憶かもしれない。愛するひとを手に入れて幸せになる人がいる一方で、愛するひとを失うことを想像することでしか愛を感じることが出来ない人がいるのだ。なぜ彼は欠落でしか愛を感じることが出来ないのだろう。

妻がヒモの男とのぞき部屋で仕事をしていたことを知って激昂し、夢破れてその場を去ったトラヴィスは酒に溺れ夜中のランドリーで息子に両親の思い出を語る。トラヴィスの父親は妻がパリの出身だと幾度となくひとに自慢するうちに本当に妻がフランスのパリの出身だと空想してしまいそのせいで母親が居心地の悪い思いをしていたこと。トラヴィスもまたジェーンが自分以外の誰かを愛しているのではないかという妄想でジェーンを苦しめていたこと。父親譲りの空想癖という悪い宿命が、ジェーンとハンターの幸せをきっと邪魔するだろう。彼が欠落でしか愛を感じることが出来ないと感じているのは両親の思い出と関係があるのかもしれない。

では彼はこれからどこへ行くのか。
言葉を失っていたトラヴィスが、いらだつ弟に初めてしゃべった言葉が「パリ」である。トラヴィスは車を運転している弟にパリへ行こうという。フランスのパリを想像する弟に兄はパリの写真(ページトップ)を見せる。それはトラヴィスが通販で買ったテキサスの土地の区画の写真だ。それを見た弟が「何もない」と言う。それに対して笑いながら答えるトラヴィスの言葉も「Empty(空っぽ)」だ。
トラヴィスにとってテキサス州のパリは自分がこの世に生を受けた場所であり、妻と子供の3人で新生活を開くために買った土地である。それは彼にとって自分の原点であると同時に未来であった。だが陸橋の上で叫んでいた男の予言通り楽園は永遠に失われてしまった。妻に再会して悄然とし、バーで呑んだくれたトラヴィスはずっと大事に持っていたパリの写真をうっちゃってしまう。この映画のタイトルである「パリ、テキサス」とは彼の心の空虚、どこにもない安住の地を意味している。父親と同じく欠落を通してしか相手の愛情を確かめられないトラヴィスは、「妻と息子の元を去るという欠落」でしか表現できない愛情を抱えて生きていく決心をしたのかもしれない。





追記1
マジックミラー越しに語り合うトラヴィスとジェーン。相手がトラヴィスであることに気づいたジェーンが部屋の電気を消し、ついに二人はお互いを見つめ合う。そのときトラヴィス側から見たジェーンの顔にトラヴィスの顔が重なって両者は一体となる。二人は互いに永遠に欠落を共有し得ない似たもの同士なのだ。

追記2
この映画では平和に暮らしていた弟一家にとって兄は平和をかき乱す「異人」として登場する。弟夫婦にとってハンターはかけがえのない子供だが、しかし不思議なことに弟夫婦は共に、それと意識しないままハンターを失うような行動ばかりしてしまう。夫のウォルトは厄介で手に負えない兄を何度も置き去りにするきっかけがあったにもかかわらず彼を家に迎え入れてしまい、ついには彼がヒューストンへ行く金銭的援助までしてしまう。妻のアンは二人が仲良くなってしまうかもしれないのにトラヴィスに息子の送り迎えをさせようとしたりトラヴィスが居心地がいいようにやたらと彼を気遣ったり、挙げ句の果てにジェーンの居場所まで教えてしまう。そして彼女は息子を失ってしまうかもしれない怯えを夫に訴えているにもかかわらずこういった行為を行ってしまうのだ。
ハンターがやたら宇宙のことを口にするのも気にかかる。古いフォルクスワーゲンの中でトラヴィスと仲良くするようにウォルトから言われたハンターは「宇宙船が車みたいに作られるようになるのはいつか?」と聞いたり、ジェーンの居場所がヒューストンと聞いて「宇宙センターがあるところだ」と言ったり、車の中でトラヴィスに太陽と地球の誕生の様子を教えたり。まるでいつか自分がここから飛び立つことを予測していたかのような。
つまりこれらはトラヴィスを中心に描かれたこの欠落という愛の物語の筋運びの中ではウォルト夫婦とハンターの別れが深刻になりすぎないような配慮の表れなのかもしれない。

追記3
この映画では離れている二人が何かを介して交流するという構図が繰り返し描かれている。
コミュニケーション不全といってもいいが、言葉を失って会話が成立しない兄と弟、道路を挟んでお互いに身振りをまねするトラヴィスとハンター、ヒューストンへ母親を探しに行くことになったときに必要な物品としてハンターがトラヴィスに要求したトランシーバー(なぜそんなものがいるのかといぶかしがる父親に対しハンターは「きっと役に立つ」といい、実際このトランシーバーは母親追跡に大活躍する)、マジックミラー越しにマイクで語り合うトラヴィスとジェーン、トラヴィスがハンターへの別れのメッセージとして吹き込んだテープレコーダー(ソニーのウォークマン?)など。これらはすべて「直接には愛を交わし合えない」夫婦や親子の関係の切なさを表現して、この映画をより印象深いものにしている。

追記4
トラヴィスが靴磨きを終えて靴を揃えたときになぜ急にハンターを送りにいくことを思いついたのか。靴を揃えるというのは家族が揃うことの暗喩であり、そこにハンターの靴が無かったことから彼を送りにいくことを思いついたのか。トラヴィスが双眼鏡で覗いていたのは旅客機そのものではなくなぜ旅客機の影だったのか。双眼鏡で覗くという行為はあこがれを意味しており、飛び立つ(旅客機)ことは出来ないが、飛び立つ事へのあこがれを「旅客機の影を追う」という行為で表現しているのか。アンが旅客機の音が嫌だといい、ハンターが「僕は好きだよ」と答えたのは、ハンターがこの家を去ることをアンが否定的にとらえているのに対し、ハンターは肯定的にとらえていることを意味しているのか。ウォルトがトラヴィスをロサンゼルスに連れてくる道中で何とか彼を旅客機に乗せたものの彼が嫌がって離陸前に二人して旅客機から降ろされるのは、新世界に飛び立つことをトラヴィスが拒否していることを暗示しているのか。そして飛行機に乗るためにいったん返したレンタカーだが、飛行機に乗らないことで再びレンタカーを借りることになったとき、トラヴィスが頑なにさっきまで乗っていたレンタカーを探し出してもう一度乗ることに固執したのは、彼が旧来の考え方から抜け出すことが出来ないでいることの暗喩か。DVDの特典映像にヴィム・ヴェンダースがカットした映像とその理由をたくさん紹介している。カットされなかったシーンには何らかの意味があるはずだと思う。それが監督の意識によるか無意識によるかの違いはあるとしても。

ああ、これでようやくこの映画について語り尽くしたかな。長々と書いてしまった。いずれも映画を見ていて僕自身の中で引っかかった点を自分に納得させるために考えたことばかりで、この解釈が他の人にも受け入れられるものだとは思っていません。お付き合いいただいた方がおられましたら感謝です。
台風の風雨が強い夜に。


















2017/09/15

sange

sange


山道を歩いて谷川へ下る荒れ地でふと足が止まった。青みがかった砂利地の上に暗茶の枯葉が散らばっている様子が心を打つ。こんな何でもないシーンの何が心を捉えるのか、言葉に出来ないことを写真で表現する事情からすればどうにもタイトルの付けようがなく苦肉の策でsangeと付けたが、以前「ロゴスに届く前に」というブログを書いたことがある。それが偶然にも7年前の明後日だった。









2017/09/09

コスモス咲く道

rural scenery




昨日の続き。
ニコンもむざむざ死を待っていたわけじゃないとわかって一安心。
今日はD800EにAi Nikkor 50mm F1.2を付けて
52mm F0.9のレンズを夢見ながら初秋の写真散歩。





















2017/09/07

waterfall

waterfall

ニコンがフルサイズミラーレス用の2種類のレンズ(52mm f/0.9と36mm f/1.2)をパテント登録したというニュースが入ってきた。
52ミリで開放F値が0.9って、これはニコン版ノクチルックスじゃないか!
さらにフルサイズミラーレスに対応させるためのFマウントレンズ用AF機構アダプター(複雑な機構のため高価になるらしい)の開発も行っているとか。
ウーン、いつになるかわからないけどGFXはおあずけにしてひたすら寝て待つか。















2017/09/01

a tiny life

a tiny life

石垣の隙間から立ち上がる命