2017/06/30

最近の日記から(2)

平成29年6月29日(木)
昨日は家の石垣から出立した蟻軍団が玄関の左側のコンクリートの隙間の小さな穴に侵入してきているのを発見。穴をボンドでふさいだあとキンチョールで蟻退治。今日は市民プールの一ヶ月泳ぎ放題券の期限だけど混んでいたので500メートルだけ泳いで帰宅。

昨日から「白鳥の歌なんか聞えない」を読んでいる。
「自分」を大切にするあまり行動に踏み切れず膨大な知識を抱えたまま「死」という大波にのまれて跡形もなく消え去ってしまう空しさと淋しさ、かといって「死」の陰に追い立てられてみっともなくあたふたと安易な行動に駆り立てられてしまっては大切にしていた「自分」に申し訳が立たない。薫君は果たして両極端に落ちずに困難な真ん中の道を歩むことが可能かという物語。

平成29年6月30日(金)
朝まだきの激しい雷雨。午前中に「白鳥」を読み終える。身体全体がだるく運動とは当分おさらばだ。
庄司薫の青春4部作は余すところあと一作。およそ40年前大学時代に読み終えたときにはわからなかったことだが、これら4部作は「若者の力を奪ったり歪ませるものから若者たちを守るため」に書かれていたのだった。我々読者は知らないうちにあふれるような愛情を著者から注がれていたわけだ。
辺境をさまよう若者たちが奈落へ落ちるのを防ぐために朱雀・白虎・玄武・青龍という四神を警護に立てたという視点に立てば、「広いライ麦畑で遊んでいる子供たちが、崖から落ちないようにするための番人になりたい」とするJ・D・サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」へのオマージュとも読み取れる。










2017/06/28

最近の日記から


平成29年6月26日(月)
夕べの夢。見たこともないある狭いビルの中。どの階も酷い有様でゴミ屋敷のようだ。どの机の周辺も煩雑極まりなく足の踏み場もない。そこを数匹のワラビーが走り回っている。4階、5階、6階と探したが結局僕の机は見つからなかった。これはつまりここにはもう僕の居場所はないという意味か。そしてメニエールは、困難な状況に空けられた鍵か。
iTunesでムーティ・シカゴのブルックナーの9番を購入。続いてネットでフルトヴェングラーの同じくブルックナー9番をダウンロード。

「無」とは境界が「無い」こと。境界の消滅を意味するのではないか。

夕方庄司薫の「赤頭巾ちゃん気をつけて」が届いたので読む。この本は大学時代に友人(H君)にあげてしまったのを今回再購入。やはりとても面白い。

平成29年6月27日(火)
朝早く職場へ行き父親の介護の意見書を書いて提出。昼から500メートル泳ぐ。水泳を始めて13日目。手で水を掻く感じがわかるようになった。「赤頭巾ちゃん」を読み終える。

平成29年6月28日(水)
どうして今僕が庄司薫のことが気になっているのかというと、今の彼の表面上の隠居は何を意味するのか、そしてそれはかつて彼が記述していたこととどう整合するのかという疑問が以前にも増して僕の中で大きくなっているからだ(今の僕もある意味隠居だし)。
例えば作家を辞めて畑仕事を始めたとかなら、「総退却」して「生きる」事をテーマにしたんだなと思うけれど(それはわかりやすい)、株や不動産の売買を生業にしているという噂を聞くとそれこそさっぱりわからない。江田五月なんかと交流があるという話からすると、ひょっとして思慮遠謀術数に富む彼のことだからマネーゲームでしこたま蓄えた資産と政界への人脈をフルに活用してサヨクの中枢で暗躍しているんじゃないか、なんてこともふと頭をよぎるわけで、それも強ち突拍子もない想像とは言えない気もする。
ただそれにしても解せないのは、そして庄司薫氏の場合は想像を前提にしてではあるが内田樹氏にしても、彼らのような生き馬の目を抜くほどの軽やかでしなやかな知性の持ち主が揃いも揃って、僕から見れば中韓の太鼓持ちという見え透いた政治的茶番(しかしそれはマスコミを使って確実に日本を万力で締め付け日本を中国の覇権下に墜とし込もうとする実効力のある茶番ではあるのだが)の走狗になっているという構図をどのように解釈しているのかという点なのだ。

夕方「さよなら快傑黒頭巾」を読み終える。「青春の死」に向けた鎮魂歌。宮崎駿氏の「紅の豚」は本作へのオマージュか。








2017/06/10

moon on wire

moon on wire


かつてはネタを漁るという姿勢だった。
ネタがないときにはネタに仕上げるという姿勢だった。‬
‪それよりはまず僕自身が、生きて生活することの方が大事だと思うようになった。‬
‪写真は撮りたいものと出会ってから。‬










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