2017/11/25

Kaweco Clutch Pencil

Untitled

久しぶりの文具ネタです。





Kaweco Clutch Pencil CL5.6BR

ブリキのペンケースの中に入っているのは





Kaweco Clutch Pencil CL5.6BR

KAWECOのスケッチアップペンシルCL5.6BR
以前購入したラミーのスクリブルと同じでいわゆる芯ホルダーというものですが、これはブラス、つまり真鍮でできています。




Kaweco Clutch Pencil CL5.6BR

芯もこんなに太い。





Kaweco Clutch Pencil CL5.6BR

おしりのノック部分をスクリューすると






Kaweco Clutch Pencil CL5.6BR

芯研器になっています。





Kaweco Clutch Pencil CL5.6BR

6Bの芯を使いたくて丸善美術商事のサムホルダー用 黒芯(6B、5本入り) を買ったんですが入らない。
説明書を読むとこのホルダーの適合芯サイズは5.5~5.6mm。丸善美術商事の芯は5.8mmでした。




Untitled

仕方がないのでカッターの刃を立ててコシコシ削ってようやく使えるようになりました。
追記:こんなことをしなくてもコヒノール(コイノア)社で6B 5.6mmが販売されています(Amazon等)




Kaweco Clutch Pencil CL5.6BR

考えながら本を読む。
読みながら思いついたことを書き込む。
またぼんやり考えながら、手慰みに筆記具を手の中で転がす。
そのうちに考えがまとまってきて
またそれを書き込む。

ものを考えるときの相棒として
愛着のわきそうな製品でした。


書き込みの本は最近僕がどっぷりはまっている岸田秀さんが山本七平さんと対談した「日本人と「日本病」について」。
日本人がどんな思考様式で行動しているかが赤裸々に語られていて大変面白い。














2017/11/23

Ai Nikkor 50mm f/1.2Sとマクロプラナーを比較する


先日Ai Nikkor 50mm f/1.2SはF2に絞るとすごくシャープになるのではないかという話題を取り上げましたが、本当にそうかどうか試してみようということで、D800EをGITZOに載せてマクロプラナーと撮り比べてみました。

DSC_7598
Ai Nikkor 50mm f/1.2S ISO 100 1/100 F2.0 撮って出し
Date and Time - 2017:11:19 11:48:38


DSC_7600
Carl Zeiss Makro-Planar T* 2/50 ZF ISO 100 1/160 F2.0 撮って出し
Date and Time - 2017:11:19 11:50:39

どうでしょう。Ai Nikkorも解像していますがマクロプラナーの方がより解像しているように見えます。Ai Nikkorはフード無しだったので、フードを付ければもっとフレアを抑制できたかもしれませんが、解像度以外の特徴としてはマクロプラナーは色乗りが良いというか、コントラストが高めで、黒が引き締まっているようにみえます。周辺減光はマクロプラナーの方が強いですね。これはマクロプラナーのssが1/160なのでAi Nikkorよりやや暗めに撮れていることが多少関係しているかもしれません(あぁ、ssを同じにしなかったことが悔やまれる)。

ではもっとアップして子細に観察してみましょう。

DSC_7598X400A
Ai Nikkor 50mm f/1.2S ほぼ400%表示


DSC_7600X400
Carl Zeiss Makro-Planar T* 2/50 ZF ほぼ400%表示

比較してわかることはAi Nikkorもちゃんと解像していて画像の芯の部分は失われていないのですが、全体にフレアがかかっていて、かつ色収差なのかどうか僕にはわかりませんが輪郭の内外に緑色帯のようなものが見えます。マクロプラナーはさすがにカールツァイス伝統のT*コーティングの効果もあってフレアや色収差?が少なくきれいに解像しています。
Ai Nikkorがマクロプラナーよりも解像度が低くコントラストが低く見えるのはこれらフレアや緑色帯などが原因なのかもしれませんね。

以上詳しい方からの叱責を覚悟の上で考察してみました。














2017/11/19

ススキヶ原

ススキヶ原

三脚を立てて写真を撮りながら丘を上り詰めた。さぁ帰ろうと振り向いたら雲の隙間から午後の光が今降りてきたススキの丘に広がった。豊穣の、黄金のような景色。三脚を放り出して両手でdp0を高く掲げて、ノーファインダーで撮った。
















2017/11/16

autumn weed

autumn weed

永き行跡に見送るひともなし来る冬ぞ














2017/11/15

浮かぶ秋

a floating autumn

渓流の撮影を終えて山から下りてきたら
古民家の用水路にひとひらのモミジ














2017/11/14

autumn stream

autumn stream

これはNikkor 35mm F1.4 Ai-sでF16に絞って撮った写真です。先日Ai Nikkor 50mm F1.2をF2に絞った写真をアップするとお約束したのですが、後日マクロプラナーの50mm F2と撮り比べてみたらちょっと印象が違いました。この件についてはまたあらためて書いてみたいと思います。
















2017/11/13

mountain stream

mountain stream

Ai Nikkor 50mm f/1.2Sは現行ニコンで最も明るいレンズです。開放では合焦していてもフレアで輪郭が滲んでソフトフィルターがかかったようなデイヴィッド・ハミルトン風(ああ、喩えが古い!)の写真が撮れる魅力があります。一方でこれはキヤノンのドリームレンズを使っていた時に感じたのですがこういったハイスピードレンズは絞るととんでもなくシャープに結像するのではないかという印象を持っていて、実際Ken Rockwell氏はこのレンズを「ニコンの50mmレンズの中ではF2で最もシャープ」と評しています。米国のB&Hのレビューではこのレンズは極めて高い評価を受けており(五つ星がなんと90%!)、それぞれの投稿を読むと「F2でのシャープさは他のレンズを圧倒する」とか「いやこのレンズは開放でもシャープだ」とか「ニコンが30年以上にも渡ってこのレンズを作り続けてくれていることに尊敬と感謝だ」とか「must haveなレンズだ」、「スムーズなマニュアルフォーカスの手触りがたまらない」などの非常に好意的かつ肯定的なレビューが並んでいて楽しいです。
GITZOの三脚にdp0を付けて絞りを絞って長時間露光するのにはまっていた僕はそれをニッコール1.2/50で試してみようと思いついて撮ったのが上の写真です。これはF16まで絞っていますが次回はF2のシャープさを試してみたいと思います。


















2017/10/23

最近ずっと伊丹さんのことを考えている

最近ずっと伊丹さんのことを考えている。
そのきっかけは確か佐々木孝次氏の著作「母親・父親・掟―精神分析による理解」に彼が影響を受けたと知って、二人の対談集「快の打ち出の小槌―日本人の精神分析講義」を読み始めたことと関係があるが、それ以前に彼の謎を解くキーワードである「父性」や「日本人論」などを中心に僕の意識がぐるぐる巡っていたことや、伊丹十三記念館から届いたDVD「13の顔を持つ男」を見て感じたことも大きかった。
彼のことを考えるというのは僕の中では一種中毒のようなものだが、苦い中毒というか、彼を考えるというのは常に自らの意識や認識や行動様式に変容を迫られる体験なわけで、しかも僕にその変容を迫る当の当事者である彼が消えてしまってもういないというのが、まるで実在しないのに強い影響力を持つ、地元の大きな洞窟、一時的には忘れていても常にそこにあってその意味を問いかけてくる大きな洞窟のような感じがするのだ。

今朝も通勤の車の中でとりとめなく彼のことを考えていて、妻の宮本信子さんの彼にまつわる思い出の一つに、彼は執拗なほど割り込みの車を前に入れようとしなかったことや、子供の頃級友が泥地で鋸を振り回せば簡単に鰻が捕れると自慢しているのに対し「人種が違う」と感じたことなど、そういった彼の感じ方は彼のエッセイの中に枚挙にいとまがないが、要するに彼はズルいことを極度に嫌悪していたわけだが、なぜそれほどずるさに対する生理的な拒否感を持っていたのだろうということをぼんやり考えていた。

ずるさというのはなんだろうと考えるとそれは極論すれば生きるためには自らの居住まいを無視するということで、生きるために道徳律やおのれを律する社会性や我々が担っている文化や美に対する尊敬の念やなにやら、つまりひとがひとであることの尊厳のようなものをすべて捨てて顧みない態度のことで、彼はそういった粗野であること、野卑なこと、鈍感なこと、意地汚いこと、みすぼらしいことなどに対する激しい嫌悪感の対極に位置するものとしておそらく自らを律することから生まれる上品さや洗練さや美しさ、清々しさなどを愛でていたのだろう。

つまり生命というものが、弱さや貧しさや、その先にある死に対する恐れによって、美しかるべき生命が惨めに汚されることが許せなかったのかもしれない。言い換えれば彼の好ましい佇まいに対する強い関心は、その対極にある愚かさや愚かさ故の恐れに対するアンチテーゼであったと、彼の中心にあるのは弱さや愚かしさに対する恐れと憎しみだったのではないか。そういった弱さや愚かしさからは自分は自由でありたいという強い希求こそが、彼の多岐にわたる行動の核だったのではないか。
そしてそういった弱さや愚かしさから自由であるための指針として、自らの内なる父性、幼いころに死別した父親が持っていたに違いない父性を自己の内面でどのような形で意識化するかが彼の中で大きなテーマとなったのだろう。そしてそれはやはり幼かった僕自身も弱さや愚かしさから自由でありたいという同じテーマを共有していたこと、母性圏からの離脱という共通したテーマを有していたことが、彼に対する強い関心のもとになっている気がする。

伊丹さんが父万作と対等に向き合えるようになり、父と同じ映画監督になって映画を撮ることが出来るようになったのは、岸田秀氏の著作を通じて母性圏を脱し父性を身に着けたことが大きかったようだ。佐々木孝次氏との対談「快の打ち出の小槌」には以下のような記述がある。
「だからねえ、なんていいますか、結局いかにして前エディプス期から一歩踏み出すのか、日本人が父親を発明し損なった文化であるとするなら、一体何がわれわれをエディプスの通過へ追いやってくれるのか、ということでしょうね。僕の場合、僕はまあ知的な人間でもなければ知的であるべく訓練された人間でもありませんけれども、こうして恐ろしげもなくお話をうかがえる唯一の根拠はね、自分の内部にある双極的関係性が、ある時突然砕け散ってね、いわば前エディプス期から次の世界へ一歩を踏み出したという、私にしてみれば非常に記念碑的な体験を持っているからなんです。何年か前に岸田秀さんの「ものぐさ精神分析」を読んでいた時なんですが、彼の唯幻論そのものもさることながら、巻末に「私の原点」という短い文章がありましてね、彼が自分の生い立ちを語っている。その中の短い一節に非常なショックを受けて私の自我が組み替わった、という体験があるわけです。(中略)そこから私は突然解放されて外へ出てしまった、ということは、僕はその時四十二歳だったわけですから、なんとまあ、四十二歳になってやっと前エディプス期を脱して、その後、自力でエディプスを通過しつつあると、まあ、完全に通過できるかどうかは今後の問題でしょうが、それにしても、中年でエディプスを脱却するというようなことがありうるのだと、しかもそれは、日本においては幸運な方なのだと、いうことが、とりもなおさず日本人の母子関係性と、それを引き裂いてくれるべき父親の不在という構造の根の深さを物語っていると思いますね」(「快の打ち出の小槌―日本人の精神分析講義」p236~237より)

糸井重里氏は彼の映画監督としての第一作「お葬式」を「つまり、外国人が見たお葬式ですね」と評しているが、あたかも彼はキリスト教圏に生まれ印欧語を話し父性を身に着けた欧米人が極東の不思議な国日本を見るように、あるときは感嘆し、あるときは面白がり、そしてあるときはその不思議の理由を解剖し、理解し、批判し、怒る。しかしそれが翻って実は自分もその日本人であることで、憤る。

そして彼の死。
彼は映画を通じて「日本を面白がる外人」あるいは「日本を面白がるおじさん」であると同時に「ミンボーの女」や「マルタイの女」でみられるようにわれわれ日本人のこころの自由の復権のために戦った人でもあった。そういう意味では彼は「日本人のお父さん」を担おうとしていたのかもしれない。彼はそれを自らのミッションとして、そしておそらく悲惨な結末を予測した上で、従容として自らの運命を受け入れたのではないか。
そういう彼の一途さに危険を覚えていたひともいたが、彼の仕事は彼の父性の証明でもあったから、それは彼の運命であったし、彼はそれを納得して去っていったのだ。そしてあとに残された私は呆然としつつ、私もまたその洞窟を掘り進めたいと思う。


















2017/10/17

a red fungus

a fungus in a forest

山道を登っていると樹の根元に小さな赤いきのこが生えていた。これはベニヤマタケかもしれない。腰をかがめて周囲の枯れ葉を取り除き、ジッツォの三脚を180度に開き、雲台が地面に接するくらいまでセンターポールを寝かせてDP3Mを装着。AFでピントを合わせたあとMFに切り替えて拡大表示でキノコの傘の手前の襞にピントを合わせて撮影したのがこの写真。ピントが微妙に傘の頂部寄りだったので撮りなおそうと思い身をかがめてモニター画面とにらめっこしていたら「カサッ」と音がした。顔をあげるとキノコのむこうの蛇と目があった。僕も驚いたけどむこうもあわてたようで、お互い身を反らせてしばし相手を観察し合った。眼につながる黒線、丸書いてチョンの茶色の銭形模様は紛れもなくマムシだが、とぐろを巻いているということは攻撃姿勢だろうか。ゆっくり静かに身を起こして遠ざかり、三脚を持って立ち上がった。








2017/10/16

autumn stream

autumn stream

雨の中ウインドブレーカーを着てジッツォの三脚を背負って山へ。峠からの渓流は水量を増し小さな滝から水しぶきをあげて流れ落ちている。三脚を設置しdp0を装着。21mmの広角なのでかなり滝に近づく必要があるが、そうするとひっきりなしにカメラに水しぶきがかかる。10秒タイマーのシャッターが降りるまでの間にレンズフィルターが水滴まみれになるので、シャッターが降りる寸前にブロワーでフィルターの水滴を吹き飛ばす。ジッツォのセンターポールの長さや角度を変えたり雲台を調整しながら構図を変えて何枚も撮る。こんなに濡れてdp0は大丈夫なんだろうか。ブロワーのパワーが弱いのでBergeonのNo.4657、SigmaのレリーズCR-31を注文(追記:BergeonのNo.4657は風量は多いけど風速は期待したよりも遅かった。どちらかと言えばマイルドな風当たり。ノズルの穴が細いからといって風速が速くなるわけではないと判明)。


















2017/10/10

Gitzoの第一印象

leaves

GT2541EX(三脚)とGH2750QR(雲台)の組み合わせの第一印象を書き留めておく。
まず重さだが三脚が1.84kgで雲台が0.55kgなので合計2.39kg。
これまで使っていたベルボンの三脚は付属の雲台込みで1.85kgなのでほぼGitzoの雲台の分だけ重くなった勘定である。山中を歩き回ることを前提に考えればやはりこれは重いと言わざるを得ないが、三脚用のバッグに入れて背中にたすき掛けしてマウンテンバイクで現地まで行き、あとは手に持ってうろつく僕の行動様式からすればこの重さは一応許容範囲かと思う。

この三脚と雲台の組み合わせの印象を一言で言えば作りや手応えや操作感は全てVS-443Qよりもゴツくてしっかりしている分扱いづらいということになる。脚開閉のためのレバーが結構硬い。センターポールはVS-443Qのエレベーターよりもしっかりしている分操作は簡易ではない。なぜかといえば角度や回転の変更がベルボンの場合エレベーターのお尻の握りを一捻りするだけなのに対しGitzoのセンターポールでは固定ノブをクルクルひねって緩めなければならないからだ。またセンターポールをスライドさせるためのノブも緩めるためにクルクルひねらなければならない。雲台のGH2750QRも自由雲台の動きをフリーにするための大きなダイヤルをかなりクルクル回さなければならない。かなりクルクル回さないといけないのだ。繰り返しになるが。

これらGitzoにおける操作の煩雑さはシッカリしていることとのトレードオフであり、要は買う立場である我々が簡便さをとるかシッカリをとるかという選択を迫られているわけで、Gitzoはそのシッカリの最右翼であり、そこから簡便さに向けて他社の製品がいくつか並んでいるという構図だ。僕としては当初ここまでのシッカリ感を望んでいたわけではなく、幾つかの条件をクリアするための過程でこの製品を選択したのだが、選んでみてはじめて犠牲になった簡便さに思いを致すこととなった。この製品を買って満足するかどうかは、おそらく失われた簡便さを、Gitzoの「モノとしてのシッカリ感」や「外観の醸し出す物的エロス」や「Gitzoというオーラ」でもってクリアできるかどうか、この製品を使い込み熟達することで失われた簡便さに対する愛惜が小さくなるかどうかだろう。だが僕の場合おそらくヨドバシカメラで実物の使い勝手をあれこれ比較していたら、「うーん」とひとこと唸った末おそらくこの製品の購入には至らなかっただろう。

ではこの製品を購入したことを後悔したかというと、実はあながちそうでもない。現物を手にして「うーん」と唸ったことは事実だが、実はちょっと惚れてもいるのだ。それはおそらくこれまで主に手持ちばかりで撮ってきたSigmaのカメラで初めて真剣にカメラ固定を考えることになったdp0との出会いが大きいような気がする。僕はこのカメラを手にして「シッカリ」撮ろうと思ったのだ。その「シッカリ」とGitzoが呼応しているような気がする。














2017/10/09

三脚のこと

a pair of mushrooms

ベルボンのVS-443Qを買ったのは2011年だから6年前。僕が初めてフルサイズ(Nikon D700)を買った年だ。そのときのブログにジッツォのエクスプローラーのことを少し書いた。三脚に十万円近く払うなんて正気の沙汰とは思えなかったが、あれから6年を経て僕も幾分正気を失ってしまったのかもしれない。というのもまさにそのエクスプローラーを注文してしまったからだ。

ベルボンの443Qは脚が180度近く開くのでエレベーターを倒せばかなり地面に近いものを撮ることが出来る。僕のような地面近くをマクロで撮ることが多いアマチュア写真家にとって非常に便利な機構だが、付属の雲台では(そして一般的な自由雲台はたいていそうなのだが)カメラを倒せる角度が90度までなのでエレベーターを水平より低い角度で地面に近づけたときカメラの底面が水平にならない。雲台を一回転させてカメラを上下さかさまにすれば水平になるが、上下逆で写真を撮るということになんとなく抵抗があるし、そもそもカメラの操作そのものが煩雑だ。またこの三脚は開脚角を3段階から選べるが三脚を移動させるときに開脚角がなにげに変化してしまうのが煩わしいし、脚の伸縮の際のクイックレバーロックも一本3カ所、計9カ所もパチンパチン開閉するのが結構面倒だ。

そうはいっても比較的廉価で大開脚できて、アングルと伸縮の操作がしやすいエレベーターが付属した三脚の選択肢はごく限られているわけで、まぁとにかく使い込んで意のままに操れるようになるのが道具を使いこなす王道だと自らに言い含めていたが、先日「地面スレスレ+三脚」でググっていてこのブログに出会ってしまったのが運の尽き。この方も僕と同様地面近くのマクロをよく撮られるようで、最近買い換えたジッツォの三脚(GT2541EX)の内容がまさに僕の希望にぴったりだった。つまり開脚角が自由に選べて、かつ開脚のロックが出来て、脚の伸縮も脚を一ひねりするだけだし、最大開脚180度で、角度自由の長さ35cmのセンターポール(ベルボンにおけるエレベーター)が付いていて、これにGH2750QRという雲台を付ければセンターポールが下方に項垂れていてもカメラを上下逆にせずに水平に出来ると。

うーむ、これはいい!というわけでジッツォのホームページで探してみたが製品リストにこの三脚は見当たらず、どうも生産終了とのことで、だから市場の在庫が無くなったら中古で購入するしかないようなのだ。うーむ、なぜこんな素晴らしい製品の生産を終了したのか。まぁそうは言っても仕方が無い。幸いヨドバシで新品が販売されていたので嬉々として雲台共々早速注文した。ちなみにこの雲台のクイックシュー用のプレートの商品番号がなかなかわからなかったがようやくG1173/14Bと判明、製品には1個付いているようだが僕はこういったものをよく失うので2つ追加注文した。まだ商品は届いていないがこの決断が吉と出るか凶と出るか。そしてまた6年前の自分が知ったらはたしてどう思うだろうか。

追記1
こちらが10年前だけどデジカメWatchによるエクスプローラーの紹介記事。Gitzoの三脚についてはこのサイトの説明がわかりやすいですね。

追記2
Gitzoより廉価でエレベーターを水平に出来る三脚としてマンフロットの190Go! MT190GOC4TB(←YouTubeに飛びます。三脚の説明は2分24秒後から)という製品もあります。Gitzo GT2541EXと同じく脚をねじって伸縮するカーボン製なのに価格は半額でGitzoより小さくて軽くていいことずくめですがこの三脚のエレベーターを伸ばせる方向は水平のみ。三本の脚長を不均等にして本体を被写体に傾けた状態でエレベーターを伸ばせば下方に向けることが可能ですが、カメラを微妙に上下させるにはエクスプローラーのようにエレベーターの角度を微調整できる方が有利かも。

追記3
エレベーター(一般名はマルチアングルアーム?)だけならこんな製品の紹介も。

追記4
エレベーターを水平より低い角度で地面に近づけたときカメラを水平に出来ない件に関しては今回はその解決のためにGitzoのGH2750QRを注文しましたがマンフロットの460MGのような三軸の雲台はGH2750QRよりも軽くて、しかもずっと廉価です。さらにベルボンのVS-443Qの雲台の取り付け角を90度変換するこういうものもありました。また僕はこれまでスリックの三脚はノーチェックだったんですが最初からアングルアダプターの付属したこの製品も魅力的です。ただし私見ですがGH2750QRはこれらの製品よりも最低地上高が低いような気がします(下の写真参照)。

追記5
Gitzoの三脚購入の経緯をまとめるためにこの記事を書いたんですが、調べるうちに実はいろんな選択肢があったんだということがわかってきました。エクスプローラーについてはまだ外で実際に使っていないのでこれが妥当な選択だったかどうかは不明ですが、VS-443Q以上に使いこなせるようになるかどうかは不安半分期待半分というところです。











2017/10/08

a tiny mushroom in the rain

tiny mushroom in the rain

昨日は傘を差して朝から雨中の写真散歩。秋はキノコの季節だし雨ならなおさらキノコにお目にかかる可能性が高い。途中で傘をおいて川縁に降り、増水した川の中で三脚を立ててNo.8のNDフィルターを装着してdp0で撮ったのが昨日アップした写真。その後川下に傘を置いたまま途上し上流で川から上がって山へ。山の中で熊やイノシシに出会わないように大声を張り上げながら進む。雨はじゃんじゃん降ってくるけどウインドブレーカーを着ていたので雨が染み込まずにすんだ。山間の暗い沼地(先日酸化第二鉄の皮膜の写真を撮った場所)に着くと苔むした杉の大木に小さな可愛いキノコがいっぱい生えている。形態からするとクヌギタケかチシオタケかと思うがよくわからない。しゃがみ込んで三脚の足を開いて、エレベーターを伸ばしてDP3 Merrillを装着。這いつくばるには足場が悪いためフリップバックのアングルビューファインダーで構図とピントを確認。まわりの苔の雨のしずくをうまく取り込むためにアプローチの角度や方向をあれこれ探りながら何枚も撮る。午前8時から午後2時まで6時間で10キロ歩いて、帰りに傘を回収して帰宅。


















2017/10/03

bacterial film

bacterial film

赤茶けた沼地や湿原などを歩いていて汚い水溜まりに油膜のようなものが浮いているのを見たことがないだろうか。
近くの錆びたドラム缶から流れ出した油や地中で発酵した物質の油分などを想像しがちだが、これは油膜ではなく酸化第二鉄の被膜なのだそうだ。
ポイントは赤茶けた沼地。つまりこれは鉄分の多い沼地で鉄イオンのFe2+をFe3+に酸化して得られるエネルギーを糧にして生きている、いわば鉄を食べるバクテリア(鉄バクテリア)が作り出した金属製の被膜だ。
油膜との見分け方は簡単で、木の枝などで膜を触ってすぐに膜の隙間が埋まれば油膜、隙間が閉じずにひび割れが残れば金属皮膜で、上の写真でも細かなひび割れや、金箔に息を吹きかけたときに出来る放射状のシワのようなものが観察できる(詳しくはこちら)。
鉄バクテリアによって酸化第二鉄が作られる過程を示した化学式はこちらを参照。
虹色の金属特有の光沢の美しさを、同じく金属の質感描写が得意なFoveonセンサーがとらえた一枚。




2017/10/02

Sigma dp0 Quattro

berries

あれだけ買うまいと心に決めていたSigma dp0 Quattroを買った。なぜ買わないと決めていたか、なぜ買ったかは言い訳めくけれども、そういえば同じ21mmで使いづらいが描写は唯一無二という点でハッセルのSWCを連想させたこと、発売開始から2年が経過してSPP現像での諸問題が解決し価格も8万円台まで下がったこと、そしてFlickrでこのカメラを使って広角マクロを撮っているひとの写真に心奪われたこと(これが一番大きい)などがその理由。
思ったより印象はとてもいい。メリルよりバッテリーの持ちが良くなり、選択範囲はまだ狭いが合焦点を細かく選べるようになった。

このカメラを使い始めたことで僕の中に変化が起きた。それは21:9や16:9の横長のアスペクト比を使うようになったこと、さらに僕はこのカメラを使うときは必ず三脚を持ち歩くようになった。もう少し被写体に寄れるようにACクローズアップレンズNo.2を(折角のゼロ・ディストーションが台無しになるが)、それと58mm径のPLフィルターを注文した。

後日記:クローズアップレンズのNo.2はdp0のような広角に装着するとほとんど効果がなかった。歪曲が強くなってもNo.4くらいを選ぶべきだった。











2017/09/25

red spider lily

red

赤い三部作はこれでおしまい















2017/09/24

red spider lilies

red spider lilies


D800Eではイメージ通りの赤を出すのにとても苦労するがFoveonではほぼ一発で決まる。
階調が飛びやすいけれど赤いものを赤く撮りたいときはDPMerrill。
















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