2015/10/25

キリスト教のシンボルはなぜ十字架か


6年前に抱いた疑問に対する自分なりの答えとして、以下覚書的に。

アイデンティティというのはたぶんバーチャルな心的世界における私という駒の輪郭のことだろう。
我々日本人にとってはその駒の輪郭というのは駒の内側から紡ぎ出されてくるものではなくて、他の駒との関係性という糸で紡ぎあげられた繭のようなもので、その繭の中で命が拍動している。

西欧人のアイデンティティはエゴ・アイデンティティ(自我同一性)といって、自分という駒の輪郭は明確であり、その駒は操作可能であり、その上部構造であるスーパーエゴがその駒を操作している。かつてスーパーエゴは神であったが、印欧語を採用した西欧人は主語すなわち「私」がスーパーエゴの権利を獲得する。
「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった」(ヨハネによる福音書第1章)

神を追い出して「私」がスーパーエゴになる。
これは神に対する明らかな謀反なので、西欧人は反逆罪という罪を負うことになる。これがおそらく「原罪」。
彼らが神に許しを請い、神と再契約するためには誰かが生け贄になる必要があった。それがキリストであり、彼が生け贄になることで生まれた再契約、それが新約だ。
キリスト教のシンボルが十字架、すなわちキリストの磔(はりつけ)であるのは、生け贄を神に差し出したことで得た権利(「私」がバーチャル世界の主人であるという権利)を神から買い取った、言わば「証文」としての意味があるからだと思われる。
キリスト教の聖典は新約聖書だが、「新約」は英語ではNew Testament。
Testamentとは証左、あかし。すなわち新約聖書とは神と取り交わした新しい契約書のことである。
(聖典が知恵の言葉というより「契約書」という商取引的な性質を帯びていることに我々はもっと意識的であるべきかもしれない)

悪魔に取り憑かれたひとに向かって神父が十字架をかざすという西欧のホラー映画でよくみられる行為は、おそらく魔除けのまじない的な意味もあるだろうが、その魔除けの効力の根拠として「私は生け贄を捧げて神からバーチャル世界の主人公たる権利を獲得した正統の主人である。おまえはその権利を有していないから去れ」というジェスチャーと解釈することも出来る。悪魔とは「私」に代わってバーチャル世界を支配しようとするもの、スーパーエゴである言語理性の外の世界の住人、無意識や情動など、脳の旧皮質の欲動と関係があるかもしれない。

我々日本人は主語を明らかにしない言語(日本語)を採用しているので、神との間でスーパーエゴを取り合いすることがない。
またそれ以前に我々のエゴは関係性によって構築されており、スーパーエゴによる操作ができず、むしろ操作不能性こそが我々のアイデンティティの特質であったりする。
我々日本人は神に反逆したことがないので原罪がない。原罪がないから生け贄もいらない。
だから我々日本人にとって生け贄をシンボル化した十字架というのは、結局ファッションアイテムの域を出ない。

今僕は新潮文庫の「こころの最終講義」を読んでいるんだけど、そのなかに「隠れキリシタン神話の変容過程」という章がある。
著者の河合隼雄氏が興味を持ったのは、日本人がキリスト教を受け入れるためにどのような加工を新約聖書に施したかということ。これが大変興味深い。
要点は二つある。ひとつは日本版新約聖書では原罪という概念がすっぽり抜け落ちているという点。さらにキリストがはりつけになった理由が人間一般の贖罪のためではなく、救世主を嫌ったヘロデ王による赤ん坊の大量虐殺の贖罪に変化しているという点。つまり我々日本人には、キリスト教の根本教義である「原罪」と「その贖罪としての磔刑」というお話をそのまま受け入れることがやはり大変難しかったということがわかる。

現代の日本人にとってキリスト教が受容可能かどうかということになると、その根本教義である原罪とキリストによる贖罪を抜きにして救いは可能かという問題に至る。
おそらくそれは西洋的自我を獲得した現代の日本人が、強くなったスーパーエゴでバーチャル世界を支配しようとして他者との軋轢に苦しんだ末に、スーパーエゴの独裁という事態を、キリストの磔刑に託して開放されるという形で可能なのではないか。それはかつて八木誠一氏が「キリスト教は信じうるか」(講談社現代新書)(p58)で述べておられた経験のことだ。
つまりキリストの贖罪によって「私」がスーパーエゴの座に就く権利を得るのではなく、彼の贖罪を通じて(彼の贖罪をみずからのスーパーエゴの抹殺ととらえ)スーパーエゴの座に就こうとする「私」を開放するということだ。



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