2014/11/21

僕自身のための赤瀬川原平試論


「赤瀬川さんは、いろいろやったように見えて実はひとつの事をやっていた人なのではないか」という南伸坊氏のコメントが芸術原論展の図録に載っているらしい。
散歩にしても野次馬にしても、「見る」ことで自分という反応体がどんな反応を示すかを面白がるために散歩に出かけるわけで、「自分の面白がり方を面白がる」というのが彼の一貫したスタイルだったのではないか。
だから晩年にすぐれない体調を押して過密なスケジュールを受け入れていたのも外からの刺激で自分の中から何が出てくるかを見たいという、これはもう彼の業のようなものだったのだろう。

僕たちは彼が面白がっていることを通じて面白さを知る。
いや、彼が自分の面白がる様子を面白がる様子を見て彼の面白がり方を学ぶ。
そういう意味では彼は面白がり方の師匠なのであって、例えばトマソン物件にしてもトマソン物件を通じて彼の面白がり方に共振するというのが僕たち赤瀬川ファンの立場で、僕たちは実際には自分でトマソン物件を探しに行ったりはしない。

美術家としての赤瀬川原平の代表作を選ぶとしたら何になるのだろうかと彼の仲間内で話題にのぼったとき、建築家の藤森照信氏は一言「ないんじゃない」と言ったという(赤瀬川原平『全面自供!』)。では彼の取り巻きや彼の著作や行動を愛していた我々は彼の何に欲望していたのか。
それは彼の眼だったのではないか。そう考えると自分の心が一番しっくりする。

たださらに重要な点は実は彼の本質は面白さの探求だけではなくて見ることで彼の中に起きる化学反応にあって、人間という生きものの全体としてのアメーバの動きの一番先端にいる鋭敏な触覚である彼自身が、その触手の先端で触ったものにどう反応するか、自分というリトマス試験紙は今の日本人のあるいは現代人の無意識の総体として対象に触ってどう反応するのかをみることで、アメーバが今いったいどこに進んでいるかを知ることが出来る、そういう面白さを面白がるということを、彼が意識的にやっていたと思われることだ。



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