2013/06/21

腹を括れとそれが言う

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1976年のロッキード事件で黒幕の小佐野賢治氏が「記憶にございません」という答弁を国会で繰り返した時に、当事者の事情は別として「なりふり構わずしらを切る」というスタイルが我々日本人の中に生まれた。
そういうことは以前にはなかったという印象が強いのは「いったいそんな厚顔無恥な弁明がまかり通ってよいものか」と驚き呆れた世間の空気を当時の僕もリアルに感じていたからだが、それからあっという間にこの手の開き直りは一世を風靡した。
以後は不祥事が発覚しても責任を取らずに居座ったり平気で嘘をつくといった風潮は地歩を固めて現在に至る。

以前であればこのような態度は女々しいとか男らしくないとか言われて忌避されたものだ。
それはつまり女性は産み育てるという役割があって建前はともかくいかに生きながらえるかという存在論的な任務を担っているのに対し、男性の存在様式は極めて機能本位であり、役割を終えてのちいかにきれいに去るかが我が国で歴史的に尊重されてきたことと無縁ではないだろう。
良き道具であること、捨て石であること、きれいに散(ち)ること、潔いこと、去り際にグズグズすれば帰属集団に迷惑をかけるという危惧は男性自らの機能性というアイデンティティと表裏一体の美学だった。

しかしおそらくこういった信憑は我が国が初めて経験した敗戦・占領という事態の中で打ち砕かれ、やむなく男性は女性性という自我を纏うこととなる。
つまり「切腹せずに生き残ることを本意とする」わけである。
小佐野氏の答弁は、当時の我々が無意識的に採用していた女性原理を意識の表層に浮かび上がらせ遍く市民権を得るという重要な役割を担っていたのかもしれない。

それから約40年が経過し「清廉さ」「謙虚さ」「誠実さ」など1976年以降に我々が失ったものは少なくないが、それにもまして残念なのは「観念する」とか「腹を括る」という気構えをやはりもはや誰も口にしなくなったことである。
それは今のような社会では最も切実に希求されてしかるべき態度だと僕は思う。

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