2013/03/17

神様の土地




たとえばパソコンのOSがそのパソコンの特質を決めるように
言語はその言語を用いる脳の特質を決定する。
印欧語族の脳の中で神は人格神として存在するために
神との間には、まるで人との付き合いのようにルールや義務や契約や恩義や
異なる人格神を奉ずるものとの間の殺し合いが発生する。
我々日本人がキリスト教やユダヤ教やイスラム教に感じる違和感はそのあたりに原因がありそうだ。

日本人の場合、神は人格というよりも脳内のひとつの区画であって
そこに何を放り込むか、何を建てるかは各人の裁量に任せられている。
その区画の使用法はその周囲の区画との関係で決まる。
したがって周囲の事情が変われば神の区画も変化する。
区画の大きさも決まっておらず、
大きなスペースが必要な場合は広くなるし
事情があって縮小しなければならないときは、それがなくならないかぎりどこまでも小さくなる。

むしろこの区画はその無名性にこそ意味があり
他の区画のあいだにあって不定形のバッファ(緩衝材)として
あるいは他の区画をスムーズに運用するための潤滑材として機能している可能性がある。

ある人にとってはそれは世間であり、
ある人にとっては自然界であり、
ある人にとっては地蔵(その土地に宿るもの)であり、
ある人にとっては先祖であり、
ある人にとっては仏やキリストであり、
ある人にとっては呪うべき運命(さだめ)であり、
ある人にとっては普段すっかり忘れ去られた休閑地である。

なぜ日本人は無宗教なのかと外人から聞かれたらニッコリ笑ってこう答えよう。
われわれに神はいないが神様の土地なら持っている。

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