2012/08/17

誰が写真を撮るのか。

Untitled
Ricoh GRD4

GRD4を買ったので改めてGRDというカメラに纏わる文章が読みたくなり
ネット上をフラフラ散歩しているとチョートクさんのRAW信者についての文章に出会った。
その元の文章を読みたくなって、これはGRD2時代のものだけど"GR DIGITAL WORKSHOP2"という本を買う。
その一部分をここに引用する。

『ふたつめは、こちらが重要なのだけど、RAWモード信者に共通のあの「絵を造り込む」という
「偽アーチストの鼻持ちならない感じ」が嫌いなのである。
大体、RAWで撮影したショットを素材として、絵を造り込むとは何という尊大な態度であろう。
そういう事は昔の巨匠フェルメールに任せておけば良い。
光と時間が一瞬で切り結ぶ、映像の神秘の一回性の秘蹟を、これはないがしろにするものだ。
「光と時間の一回限りの遭遇」の秘密がJPEGにはある。』(GR DIGITAL WORKSHOP2 田中長徳 枻出版社 2008 p89)

普段のチョートクさんの文章は少し吉田健一臭が気になるが
この文章は彼の写真に対する決意表明が明確に述べられたなかなかの名文章だ。
その一番美しい部分は「光と時間が一瞬で切り結ぶ、映像の神秘の一回性の秘蹟」
というところで、なるほど彼の写真の本質は写像の一回性にあるのだなということがよくわかる。
日本の、おそらく写真の世界で彼がスナッパーとして何と戦ってきたかが想像できる気がする。

彼が戦ってきた相手とはおそらく「写真を素材として絵を造り込む人たち」だろう。
写真は素材に過ぎなくて、問題は素材を使っていかに自己表現するか、
「撮影対象」ではなく「自分」の方に比重があるということが、彼の一番我慢ならないところなのだろう。
いやそれは時には自分でさえなく「依頼主」や「顧客」や「自己顕示欲」かもしれないが。

ではもう撮影者はいらないのではないか。
極論を言えば路上に三脚を立てて一日中ランダムな時間に機械的にシャッターが下りるようにすれば
(ワタシのいない)「光と時間の一回限りの遭遇」を捕らえられるだろう。
いや当然そうじゃない。彼が撮りたいのは
ワタシという素材と出会うことで変容する世界、世界と出会うことで変容するワタシの目を通してみる世界にあるのであって
依然としてワタシは必要なのだが、それは
「非主宰者としてのワタシ」なのだろう。
そういう面白がりかたは赤瀬川原平や内田百閒の立場と似ている気がする。

人はしかしみな写真を撮るということが自分にとってどんな意味があるかという点において、一致を見ないだろう。
料理人にとっての包丁が、日本の板前のように素材を活かすために使うのか、
フランス料理のようにナマ(RAW!)の素材を切り刻むのか。
あるいは素材と自分の間を移動する重心を面白がるのか。

それで「こまけぇーこたぁいいんだよww」というのが今日の結論だったりする。

3 件のコメント:

  1. チョートクさんの言葉は、フィルム時代で思考が停止し、化石化した主張にしか聞こえませんね。
    でもスナップ写真を撮るのなら、比重が一番「自分」あるような気がしますし。
    こういう事を語り出したら、みんな意見は違いますよw
    確かに、そんなこまけぇこたぁいいよ、ですよねw

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  2. 所詮、カメラから出てくるJPEGもメーカーのエンジンを通された、加工された物だと思いますがね。。。
    ちなみに、自分は記憶色で現像しているので、全く現実とは違う風景ができる事も有ります(笑)

    まぁ、あれです。
    好きに撮らせてくれw
    ですね(^_^;)

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  3. jawaさん、空i7さんありがとうございます。
    僕もどちらかというといじくりたおす方なのでチョートクさんのこの文章を読んだときは
    そうか、僕もいっぱしの偽アーチストというわけか、というふうにちょっと参ってしまったんですが
    まあ、そんな気持ちを整理するためにこんな文章を書いたというわけです。

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