2010/03/09

写真は窓

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僕たちは何でも写真に撮れる。
目の前のアスファルトでも曇った空でも部屋の絨毯でも。
なぜそれを撮ってはいけないのかと僕はいつも自問する。
いや撮っても全然構わない。
ただ写真というのが我々の中で記号的な意味合いを持っているとすれば、
望むのは同じ空間、同じムードではなく違う時、違う場所、違う空気、違う気分。
写真というのは結局のところ違う時空間へのいざないなのだろう。

ありふれた写真を捨てるのにどうしてそんなに躊躇するのか、ほかの人には理解できない。
ありふれた景色を写真に撮った時、その写真の価値をみずからに担保しているのは
「私が撮った」という点だけなので、
私にとっては意味があるけれども、ほかの人にとっては意味がない。

でも、写真は本来窓であって、窓というのは通り道としてだけ意味があり、存在そのものは空であり、
写真そのものにモノとしての存在的な意味があるわけではないという視点に立てば、
つまりその窓を通して見える景色の方に価値を見いだすことが出来れば、
躊躇せずに自分の指紋を消すことが出来る。

ここを通って、異なる時、異なる場所、異なる空気の異なる気分へ。

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