2010/01/25

結ぼれの集積としての私の自我

camellia dark in square

僕にとってブログを書くというのは、心の奥の方で未整理のまま埃をかぶった不定形の古いわだかまりを順番に取り出して、フッと息を吹きかけて埃を払い、あらためて見直してみると、なんだこんなところに隠れた結び目があるじゃないか、ここをこう引っ張ればほどけるんじゃないか。ほら、ほどけた。という行程をムービーにとってアップするという、そのムービーを映像ではなく、文章にしてアップするということのような気がする。
そう思ったのは、このあいだ車を運転していて以前ブログにアップした文章を思い出していたときに、ブログに書く前は不定形なりにもしっかりとした輪郭があって質量を持っていたその想念が、思い出そうと思ってももはや掴めなくなっていることに気が付いたからだ。

たぶんそれはほどけてしまったのだ。
そうか。あれはもうほどけてしまったのだ。
心の中を散歩して、出くわす妖怪のような想念達は、僕が文章化していくことによって一つづつほどけて形をなさなくなっていく。

それはつまり、僕の自我は結ぼれの集積として存在していて、結ぼれが一つづつほどけることによって、僕の自我が次第に空洞化していっているということなんじゃないだろうか。

それが都合のいいことか悪いことかはわからないが、未解決の結ぼれの集積こそが自我であるというのは、一つの仮説としておもしろい。

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