2009/08/29

物語としての肩こり



今日仕事をしていて肩こりも物語なのかなと思った。
アメリカ人はあまり肩が凝らないらしい。
カルテに患者さんの症状を英語で書くんだけど、研修医の頃に先輩のドクターに肩こりって英語でなんて言うんですかと聞いたら、外人は肩が凝らないから肩こりという英語はないと言われた。

そんなわけはないだろう。同じ人間の症状が国によってあったりなかったりするわけがない。
そう思って自分でも調べたが、やっぱり医学辞書には載っていなかったので、誰に教わったか、それ以後はshoulder stiffnessと書くようにしたわけだが、この単語をカルテに書くたびに、(これは仮の命名だけど)と頭の中で断ってから書いている。
(そういえば外国では孫がたんとん・たんとん・たんとんとんと歌いながらおじいさんの肩を叩いているのは見たことがないな)

国によって、あるいは時代によって人間が感じる苦しみは違うのかもしれないと次に思ったのは、中国伝統医学を勉強していたときだ。古代の中国医学を勉強していると、ときどき知らない症状に出会う。
例えば傷寒論という古代の中国の医学書にはしばしば結胸や胸脇苦満などの胸部の症状がよく登場するけれども、これがどうもよくわからない。単なる狭心症や気管支喘息や自然気胸や肝疾患や胃疾患によるものとは思えない。
たまに出現するだけなら気にもとめないが、しばしば目にするところを見ると、当時の人々にとってはわりとポピュラーな症状だったんだろう。でも今の僕たちにはそれに該当する言葉がない。症状そのものがなくなったのではないにしても、それを表現する言葉がないということは、その症状は今流行っていないということなんだろう。

シンデレラ物語の原型になる話は世界中に広く分布しているらしいが、それとは別に時代や地域で異なる説話原型というのもある。
人間の感じる症状にも、時代や場所に左右されない普遍的な症状群と、ローカルな症状というものがあるのかもしれない。

ラマチャンドランの本にはphantom painの不思議な治療法の話が載っている。
phantom painというのは幻肢痛といって、事故などで手や足を切断した人が、今はもう存在しないはずの手や足に痛みを感じるという現象で、痛んでいる手が「存在する」なら、治療者はそこに疾患を見つけて治療できるけれども、「ない」場所が痛んでいるんだから治療のしようがない。
ラマチャンドランは患者の痛みの原因は(当然失われた腕にあるのではなく)、腕が失われたことを脳が受容できていないためではないかと考えた。
そこで彼は患者を椅子に座らせ、机の中央に縦に鏡を置き、健全な方の右手を机の上にのせるように言った。
鏡の右側から見ると、まるで鏡の中には失われたはずの左手が鏡のむこうに存在するように見える。
そこでラマチャンドランは患者にこう言った。
「あなたの痛みを感じている(失われた)左手が、鏡に写っている像とぴったり一致するように右手の位置を調節して下さい。
そして両手でオーケストラの指揮をするように同時に動かして下さい」
すると患者は失われた左手が自分の意志で自由にコントロールできるように感じ、それと同時に彼を苦しめていた(失われた左手の)痛みから解放されたのです。

ラマチャンドランの治療の成功は、ある種の症状は「物語」であり、別の物語を導入することによって症状を消失させることが出来るという可能性を示唆しています。

さて、私たち日本人の肩こりがもし物語であるならば、それはどんな物語と関連があるのでしょうか。
それは私たちがふだん使っている言葉にヒントがあるかもしれません。

「肩の荷が下りた」
「会社の未来は君の双肩にかかっている」
「肩肘張って生きる」
「肩で風を切って歩く」

こういった言葉から想像できることは、私たち日本人にとって「肩」というのは、社会やコミュニティーにおけるその人の役割や姿勢と関係の強い部位として認識されているということです。
社会における役割と姿勢。それが日本人の肩が担っている役割ではないか。
だから日本人は社会的重圧を「肩」で感じるように出来ている民族であると。

じゃあこうしよう。今後は「おしりの荷が下りた」「会社の未来は君のおしりにかかっている」「おしりを張って歩く」「おしりで風を切って歩く」というふうに、言うようにしよう。
言うだけではなく、実際におしりで風を切って歩くというのもよいかもしれない。
そうすれば僕たちは肩こりから解放されておしりが凝るようになる。
何も解決していないような気もする。

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