2009/06/17

恥ずかしいという感情の起源について

主なる神はアダムとイブにエデンの園にある知恵の実だけは食べるなと命じた。しかし二人は掟を破ってその実を食べてしまう。その途端、二人は突然裸でいることが恥ずかしくなり、イチジクの葉を身にまとった。

恥ずかしいという感情はどこから生まれるのだろう。
素っ裸で外に飛び出したら往来の真ん中だったり、
満員電車の中でおならをしてしまったり、
演奏の発表会で間違って素っ頓狂な音を出してしまったり、
自慢げに話した内容がまるっきり的外れだったことに気付いたり、
外出から帰ってきたらズボンのチャックが全開だったことに気付いたり。

共通するのは、
「あらまほしき規範からの逸脱の自覚」である。
自分は本来は調和の側にいるはずなのに調和に対し無頓着な人間であると誤解されるような状況に陥ったこと。
調和とは、あるべき自分にそぐう状態にあること。
あるべき自分とは、私が抱く世界のバーチャルイメージの中における「私という駒」の纏っている姿勢のことだ。

誰がその駒にその姿勢を纏わせたのか。
それはそのバーチャル世界がその駒に課した役割だから、私にその姿勢を纏わせたのはバーチャル世界を想像した私自身に他ならない。

そしてそのバーチャル世界を生み出したのは「言葉」であり、「智恵」である。
智恵の実を食べたというのは、自前のバーチャル世界を生み出す能力のこと、つまり言葉のことだ。
自前のバーチャル世界を持つことは、そのバーチャル世界の掟を自分で作り出すということで、つまり私はバーチャル世界の神なのだ。
人は言葉を持つことでバーチャル世界の神になる。

罪というのは言葉によって人間が自らバーチャル世界の神になることだ。
英語ではすべての文章に主語が必要だ。
私は、で始まる文章はすべてI(アイ)を省略できない。
つまり西欧人はすべてのバーチャル世界に私という刻印を押す民族なのだ。
しかし日本人は主語を使わない。
日本人は極力自分という刻印を押したがらない民族だ。
もちろん日本人もバーチャル世界を作っているのは自分なのだが、そのことに対し私たちは意図的に無自覚だ。
日本人に罪の意識が希薄なのはそのせいかもしれない。

イエスは何をしたか。彼は「私という刻印(=原罪)」とともに死に、いったん「私という刻印」を神に返したのち私のバーチャル世界に「神」という駒を導入したのだ。
「私という神」をいったん神に返さなければ「神」という駒は手に入らないからだ。
以後このバーチャル世界では「神」と「私」が並んで歩くようになる。

「私は神の律法のうちに喜びを見出していますが、自分の奥底ではわたしの体の中には、別の法則があって心の法則と戦い、わたしを罪のとりこにしていることがわかります。私はなんと悲しい人間でしょう。だれが死に定められたこの肉体から救い出してくれるのでしょうか。」(ローマの信徒への手紙7:15-24)

「肉体によって弱められた律法にできなかったことを神はしてくださいました。つまり自分のひとり息子を罪の体のかたちで世に送り、わたしたちが肉でなく律法を全うして生きられるように、肉のうちにある罪を処断してくださったのです。」(ローマの信徒への手紙8:3-4)

(以上は私のひとりごとです。たぶん勘違いしているので放置して下さい)。

2 件のコメント:

  1. う〜ん、なるほど〜、面白いです!!
    あまりにも関心してしまったので、放置できませんでした!

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  2. おお、Noisyさんわかっていただけましたか。
    こんなひとりよがりな考察にコメントをいただけるとは思ってなかったのですごくうれしいです。

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