2007/09/07

臨済録

養老孟司先生と内田樹先生の対談集「逆立ち日本論」を読み終える。
養老先生も内田先生も、二人とも遠心力系。ぶんぶん振り回す。痛快だ。
僕は読書中に気になった所や面白いページの耳を折る習慣があるが、この本で耳を折ったのは10カ所。いずれもオツムの肥やしになりそうなところで、やがて折った耳の数カ所からは芽が出るだろう。
その中で一番大きな樹になりそうなところが第八章の養老先生の言葉。
「随処に主となる。これは『臨済録』で臨済禅僧が伝えた言葉です。随処(ずいしょ)に主と作(な)れば、立処(りっしょ)皆真なり。」

AからBを目指して移動するとき、移動中に人は何を考えるだろう。
Bを真の目的と考えると、移動中は仮の人生である。
脳の中ではまだ到着してもいないBというバーチャルなイメージがリアルになり、逆にリアルである今現在の移動時間はバーチャルになる。
脳の中ではリアルとバーチャルが逆転しているのだ。

「丁寧」とは、AとBの間を限りなく細分化して、その一つ一つの枡に自分を入れていくことでリアルを取り戻す試みである。それを臨済禅僧はこのように表現された。

随処に主と作れば、立処皆真なり。

早速アマゾンで「臨済録」を注文する。

0 件のコメント:

コメントを投稿

twitter