2017/04/22

原平さんの「いや」




今日久しぶりに赤瀬川原平さんの「金属人類学入門」をお風呂に持って入った。
僕はいろんな本をお風呂で読むけれどとりわけ原平さんの本が好きでよくお風呂で読むのだ。
その金属人類学入門の最初の方に次のような文章が載っている。

「人間とはそういう生き物らしい。親孝行したいときには親は無し型生物といわれている。いわれているかどうかは知らないが、ちょうどカメラの世界がそういうところにさしかかっているのだ。
いやカメラに限らないことだが、身の回りから急速に金属が減ってきている。もちろん高層ビルは中にたくさんの鉄骨が使われているが、それもしかし最近は柔構造となって、鉄の量は昔にくらべて減っているのではないだろうか。
いや専門的なことはわからない。でもカメラが金属製品でなくなってきていることはわかるのだ。機械製品でもなくなって電子製品になってきている。それはそれで世の中の発展に過ぎないことだけど、何故かカメラファンには不満が広がっている。
いや調査したわけではないが、自分の中のカメラファン度である」

若い頃の原平さんは思考という列車に乗ってどこまでも行ってしまう人だった。
どこまでも、というのは思考の極北、それはいわば「正気の終わる場所」で、その駅にたった一人降りたった彼は、幾度と知れず底なしの孤独と恐怖を味わったことだろう。
思考と理屈の行き着く先はハーレムではなくこの世の理解を絶する理不尽との相克という切り立った崖っぷちであり、それ以上進めば死か狂気しかなく、そこから引き返すには「冗談」や「笑い」という薬が彼にはどうしても必要だったし実際それは彼を救う特効薬だった。

原平さんの「いや」は思考の列車の一両目が地を離れて二両目もそれを追って地を離れようとするところで必ず現れて、彼の足を地面に引き戻す。そこに彼独特のユーモアが生まれる。